さぐりさぐり、めぐりめぐり

借り物のコトバが増えてきた。

さぐりさぐり、めぐりめぐり岩辺智博ブログTOP

劣悪・残酷でも労働者が会社を離れられない理由『自動車絶望工場』

去年の10月から12月にかけての3ヶ月、自動車工場で派遣工として働いていた。
毎週土曜日の編集・ライター養成講座に出席するため、東京で暮らしながらガッツリ貯金をできそうな求人を探していたところ、「寮費無料」「月収31万以上」という文字が目についた。業務内容からガテン系の仕事だということは察していたが、実際に電話で問い合わせてみるまで自動車工場だとはわからなかった。

それ以前が日がなPCに張りついて働くスタイルだったこともあり、次の仕事を見つけるまでの期間と割り切って身体を使う仕事(ブルーワーカー)をしてみることにした。高校時代以降、似たようなレイヤーの中で過ごしてきた約10年の時間に風穴をあけるような発見があればという目論見のもと応募すると、あっさりと採用された。

個人の3ヶ月の記録も後日投稿する予定だが、期間終了後に読んだ『新装増補版 自動車絶望工場 (講談社文庫)』が生々しく自動車工場で働くということについて迫っているので備忘録的に残しておきたいのと、日常的に利用する自動車という基幹産業が何の上に成り立っていたのかを認知してもらえれば幸いだ。

ジャーナリストの鎌田慧さんが34歳の時に6ヶ月トヨタ自動車の本社工場で期間工を勤めた記録を緻密に綴っている。時代背景的にも1972年、トヨタ自動車が世界第3位という業界順位から虎視眈々と頂点を狙っており、日本の産業界全体にとってもまだまだ成長を謳歌している時期である。(ぼくの勤務していた自動車工場もトヨタ系列だった)

 

自動車工場と労働者の関係性『自動車絶望工場』より

暮らし向きがみるみる良くなっていく経済成長期、日本各地から「世界のトヨタ」に明るい未来を描いてやってきた男たちが直面する日々とは?以下に、本文中の印象的な箇所をいくつか引用する。読み進める度に胸糞悪い気分になるかもしれない。
 

会社は労働者をどう捉えているか

「慣れると居眠りしながらでもできるようになる」こういってくれた人が二、三人いた。意識がなくても身体を動かしていれば良い。それが機械になり切った時だ。合理化、というときわめて合理的、理論的なもののような感じを与えるが、それは最大の剰余価値をはじき出すために合理的にされているだけのことであって、労働者にとっては非合理な強制でしかない。作業システムが一方的に完成させられてしまえば、あとはコンベアのスピードだけで遮二無二統御できる。生産を上げるためにはスピードを速め、より長時間コンベアに縛りつけさせれば良いことになる。いまそうされてしまったのだ。

 

単純反復不熟練労働は、それに従事する労働者を企業から離れ難くさせる。一定の年齢に達し、一定の生活内容を作りそれを支える一定の賃金を受け取ると、もうかれはいまの企業から出られなくなる。その労働がどんなに退屈極まりないものであっても、いまの企業にいるからこそ通用するのであって、他の企業ではもう通用しない。若く、さまざまな可能性を持っている一人の人間が、ひとつの器官だけを激しく使う労働に囲い込まれ、人為的に未発達な人間にされてしまう。何も特長のない、代替可能な、従順な労働力でいる限り、かれには一定の報酬が一応保証される。かれは閉鎖社会の中で飼い殺しになる。工程を細分化し再構成した合理化は、人間の能力を細分化させ、人格さえ企業に都合のよいように再構成する。それはロボトミーの手術にも匹敵する。

 

新年からのスローガンが黒板に書かれている。“各人は全てのことに責任を持つ事”

 

「愛される車を世界に」これがトヨタのスローガン。思いやりのある車、大事な人を運ぶ車、吉永小百合もそういいながら、ブラウン管の中から微笑みかける。それを作っている労働者たちが、緩慢に殺戮されていきながら、どうして人間優先の車ができるのだろうか。

 

熟練を解体させるための方法として、作業を標準化すると同時に、「慣習を打破する」ことは、労働者の思想を打破することでもあった。

 

「労働者派遣法は必要な時に必要な人間を必要な量だけ派遣する。これはトヨタカンバン方式と一緒ですね。ぼくがトヨタ期間工で働いた時、深夜二時ごろ、ちょうど部品がなくなったころに、部品が運ばれてくるんです。ジャスト・イン・タイム。だから在庫はいらない。労働者をこの部品と同じように扱い、企業の一方的な都合で右から左に動かすだけ。それを可能にしたのが労働者派遣法なんです。人格なんか関係なく、労働力として切り売りされるわけです」

 

若者たちの存在は、いつでも、どこへでも、企業の必要に応じて、必要な量だけ供給される部品と化している。その屈辱感と絶望、孤立感と将来への焦りは、四◯年前の期間工にとって、とても無関心ではいられない。人間らしい生活と将来の夢をもとめるのは、けっして贅沢なことではないはずだ。

 

劣悪な労働環境

山本君の話によれば、かれの現場の近くで、実習生が工作機械のドアに指をはさまれて怪我をしたという。工藤君の反対番の季節工もやはり同じようにして指を怪我しているし、ぼくの現場でも反対番の労働者が指を落としている。ところが、その怪我の実態は、自分の現場は別にしても、けっしてはっきりしないのだ。死んで初めて「重大災害」と発表されるぐらいのものだ。落とされた指や、もぎ取られた片腕や、潰された足などに対しては、「遺憾」の声明も、「哀悼」の意も表せられない。

 

この半年間に勤務形態は三回変えられている。八月までは昼勤。九月から一二月までは連続二交替制、そして一月から昼夜二交代制。それも労働者になんの相談もなく。ただ一方的に増加する生産台数を消化するために、人員を増やさず、労働時間(残業)の延長だけで切り抜けている。

 

それを大野は、機械が作業している間の時間は、人が労働している時間でないとする理論を持ち出し、労働時間内を、「人工時間」と「機械時間」とに区分し、機械時間の間にあった労働者の手持ち時間を無くすることを実行した。そしてこの手持ち時間に、もう一台の機械に材料をセットすることを実行させた。こうしていままでの専門工は、二、三台の複数の機械を担当させられることになった。

 

自動車工場と労働者の人生

トイレの落書「俺は金さえもらえば良いのだ」を見ても、いままでたんにもっともだと思うだけだったが、これはごく常識的に、労働の代償に金を受け取るということだけではなく、労働が単調で辛いこと、先の見通しがないことに対するネガティブな抗議、金をもらえばいいだけではない、そうは信じたくない労働者が、現実の労働がそのようなものであるなら、あとは労働以外の生活はせめて自分のものにするのだ、という主張のようにも読み取れる。

 

この労働は物を創ることではない。“組付ける”ことだ。もし、この仕事を十五歳の少年がぼくに代ってやったとしても、なんの不都合のことはない。コストが安くなるだけだ。かれとぼくとの人生経験、知識の差は仕事になんら反映しない。ただ、もし、かれが三四歳までの二年間、この仕事に従事したとするとかれが労働によって得た知識、熟練は一分二秒で完結するだけのものであり、それ以外の知識も、熟練も、判断力をも持たない。十五歳の少年以上に成長しない奇型のものになり、かれの人間性は、残業と睡眠時間を差し引いた、微々たる“自由時間”内で得られるごく限られた行動によってしか発展させ得ないだろう。みんなは自分の妻に、自分の労働についてどう話しているのだろうか。

 

食堂ではいつも思うことなのだが、作業衣を脱いでそれぞれ思い思いの寛いだ服装をしていても、みんな同じように見えるのだ。独身の同じ年格好の若い労働者ばかりのせいもあるだろうが、どこか受験勉強中の予備校生の集団のような感じを受ける。もの静かで、内省的で、打ちひしがれているようで、不敵な面魂とか、強烈な個性とかが感じられる人はほとんどいない。

 

「さあ、やるか」

この「さあ、やるか」は、決して、「さあ、やろう」ではない。さあ、やるより仕方がない、といったニュアンスである。「さあ、また地獄が始まるか」

 

生産の組織化が進めば進むほど、労働者は孤独になる。労働者がその対象と疎遠な関係になればなるほど、かれらは家族との関係とレジャーの中における偶然性に情熱を傾ける。職場での話題の中心は、きまってボーリングのアベレージであったり、ドライブした時の経験談である。

 

「労働の細分は人民の暗殺である」

マルクスは『資本論』の中でアーカートのこの句を引用したあとで分業が「個別的労働者を不具化させ」「労働に対する資本の支配の新たな諸条件を生産する」ことを指摘している。マニュファクチュアによって分解され、孤立化され、自立化された諸労働は、連続性、一様性、規則正しさ、秩序、労働強度などで、それまでの労働を一変させた。やがてそれは、「細目作業への労働者の生涯的合体、および、資本のもとへの部分労働者の無条件的隷属」を完成させる。あとは、「労働対象が同じ空間をより短時間に通過する」方法が考えられればいいのである。

 

労働者と自動車工場の契約

ルポルタージュから40年以上を経て、工場も機械化が進んでいる。景気の面も大いに関係しているのだろうが、ぼくがラインにいた3ヶ月に関して言えば驚くほど“暇”だった。そして本当に“退屈”だった。


忙しさに関しては配属される工程にもよるが、いずれにしても一人ひとりの作業は単調で現場においては創意工夫の余地はない。作業量が増えたときに手際よく対応できるかどうか、重要なのはそれだけだ。ノルマが少ないときには、まるで必要のない人員が何人もできる。


厄介なのは、決められた工程の業務以上のことをすることは許されず、それによって個々の作業量に大きく開きができる。忙しい工程に配置される人は当然暇そうな人に苛立つ。すると労働者同士の人間関係に若干亀裂が入る。例外なくぼくも暇そうに見えるのを隠そうと何かしているふりをするのだが、その度に「なんて不毛なことをしているのだろう」と何回思ったことだろうか。職長からの指示は何一つない。

引用本文にもある通り、個人の仕事に発展がない。その場かぎりの職能以外に得られるものと言えば、その月をやり繰りするのにかろうじて必要な報酬(生活エンジン)のみだ。マルクスは『共産党宣言 (岩波文庫)』で以下のように述べている。

賃金労働の平均価格は、労働賃金の最低限度のものである。すなわち、労働者が労働者として生命を維持していくのに欠くことのできない生活手段の総計だけである。つまり、賃金労働者がその活動によって獲得するものは、単にかれのはだかのままの生命を再生産するに足るにすぎない。われわれは、生命そのものを再生産するにしかすぎないような労働生産物を、個人が取得することを廃棄しようとは決して思わない、そういう取得は、他人の労働を支配する力となるほどの純益を残しはしないからである。われわれのあくまでも廃止しようと欲するものは、ただ、労働者は資本を増殖するためにのみ生活し、そして支配階級の利益が必要としなければ生活することができないという、そんなみじめな取得の生活である。


単調な日々にストレスを溜めた労働者たちは時代錯誤にも8割ほどが喫煙者で、休憩時間にはとにかくケータイゲームを行っている。話のネタはパチンコや競馬、それに風俗だ。労働者の99%が男性な上、国内の多くの工場が郊外に位置するため、出会いも乏しいという。


また、減ったとはいえ事故もなくならない。今でも稀に機械による頭のギロチンや指の切断などもあるという。これに関しては逐一注意勧告をされた。そこまでいかなくとも一度肌にペンキが付けば数日は取れず、電動機械を鉄に当てる度に勢いよく鉄の切り屑が顔に飛んできたりする。

多くの労働者が「3K(きつい・汚い・危険)だ」と言いながらも離れられないのは、やはり他職場においても応用できる技能を得られないことが大きい。また、業務におけるコミュニケーションもさほど求められず、会社にいながら忠誠心も結束感も特に得られない。尊敬されない年配の上司をどれだけ叩き、文句を述べても、目の前の仕事は変わらない。こうして労働者は自動車会社に依存せざるを得ない。

退職するぼくに「辞める時は職長にこれ言ってくれよ!」と思い思いに愚痴を委ねる同僚たちの姿が忘れられない。工場の小さな天窓から見える空は決まって灰色だった。

▼書籍はこちら

新装増補版 自動車絶望工場 (講談社文庫)

鎌田 慧 講談社 2011-09-15
売り上げランキング : 143499
by ヨメレバ
マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

マルクス,エンゲルス 岩波書店 1971-01-01
売り上げランキング : 15440
by ヨメレバ