さぐりさぐり、めぐりめぐり

借り物のコトバが増えてきた。

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『共産党宣言』は雇用され、働くすべての人への伝言

先日こんな記事を書いた。

当時ほどでないにせよ、自動車工場における労働には創造性は求められず、したがって働く喜びというものからは程遠い。かろうじて出社し、機能し続けてもらうだけの報酬をガソリンレベルで毎月補充し、愚痴を吐く口だけ元気な労働者の足を今日も工場に向かわせる。


直近の自身の経験もあって極端ながら自動車工場を例に出したが、「資本所持者」と「労働者」の間には普遍的な関係性があると見て間違いない。条件のいい会社よくない会社、違いはあれど、今日においても我々の多くは「労働者」すなわち資本家に労働を提供して賃金を獲得する側にある。(※ここでの「労働者」は肉体労働者のみでなく、ホワイトワーカーについても該当する)

契約期間も終わって時間のゆとりを得た今、次の仕事探しもほどほどに「働き方」、「生き方」もっと言えば世の中の条理や自然の摂理を知らねばと思って図書館通いをしている。この期間になるべく普遍的で真理を述べた書籍に当たろうと本を探している中で極めて薄い一冊の書籍に目がとられた。

 『共産党宣言 (岩波文庫)』だ。

 

マルクス・エンゲルス 共産党宣言 (岩波文庫)

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共産党宣言』について

1848年に共産主義同盟の綱領として発表された。マルクスエンゲルス2人のドイツ人によってつくられた書籍である。

今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。

万国のプロレタリア団結せよ!

冒頭と結びのこれらの句はよく知られており、大まかに言えばこの2つの句に文書全体が宿っていると言っても過言ではない。文書全体でも120ページほどで、共産党宣言本文に関しては60ページに収まっている。じっくり読んでも半日あれば足りる。断じて難しい書籍ではない。ぜひ一度手にとって読んでみてほしい。それは決して限られた地域の過去の話ではなく、今日我々が直面している「仕事」や「社会」の普遍的な原則や不条理の正体をつかむことができるだろう。


立場を「労働者(プロレタリア)」の側にはっきりとさせた上での言及になる分、場合によっては全てに頷く必要はない。その上で良質な対話のきっかけとなることを保証する。

 

共産党宣言』より引用

本文に頻出する2つの階級の定義

    • ブルジョア階級:近代的資本家階級。社会的生産の諸手段の所有者にして賃金労働者の雇傭者である階級
    • プロレタリア階級:自分自身の生産手段をもたない。ゆえに、生きるために自分の労働力を売ることをしいられる近代賃金労働者の階級

 

ブルジョアとプロレタリアの性質

ブルジョア階級は、すべての生産用具の急速な改良によって無制限に容易になった交通によって、すべての民族を、どんなに未開な民族をも、文明のなかへ引きいれる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、未開人のどんなに頑固な異国人嫌いも降伏をよぎなくされる。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。かれらはすべての民族に、いわゆる文明を自国に輸入することを、すなわちブルジョア階級になることを強制する。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。

 

ブルジョア階級は農村を、都市の支配に屈服させた。かれらは巨大な都市を作り出し、農村人口にくらべて都市人口の数を非常に高度に増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知から救い出した。かれらは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開諸国を文明諸国に、農耕諸民族をブルジョア諸民族に、東洋を西洋に依存させた。

 

プロレタリアは、自分自身のこれまでの獲得様式を、したがってまたこれまでの全獲得様式を廃止しなくては、社会的生産諸力を奪取することはできない。プロレタリアは確保すべき自分のものを何ももたない。かれらが破壊しなければならないものは、これまでのすべての私的安全や私的保障である。

歴史の中でたびたび革命という方法をもって秩序の転覆が図られる理由はここにあるようだ。

 

共産主義への誤解について

共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。

 

個人的に獲得した財産、みずから働いて得た財産を、すなわちいっさいの個人的な自由、活動、独立の基礎をなす財産を、われわれ共産主義者は廃棄しようとする、という非難がわれわれに対してなされている。働いてえた、苦労してえた、自分で儲けた財産!諸君は、ブルジョア的財産以前からあった小市民の、小農民の財産のことをいっているのか?われわれはそんなものを廃棄する必要をみとめない。工業の発展がそれを廃棄したし、また毎日廃棄しつつある。それとも諸君は、近代のブルジョア私有財産のことをいうのか?

 

私有財産の廃止とともに、すべての活動がやみ、一般的怠惰がはびこるであろう、という異論がある。この考えにしたがえば、ブルジョア社会は、怠惰のためにとうの昔に破滅していたにちがいない。なぜなら、この社会では、働くものは儲けない、儲けるものは働かない、からである。こういう疑念はすべて、資本がなくなれば賃金労働もまたなくなる、という自明のことを他の言葉でいい直しただけである。

 

資本は共同の生産物であって、私有できるものではない

資本家であるということは、生産において単に純粋に個人的な地位を占めていることではなく、社会的な地位を占めていることである。資本は共同の生産物であって、ただ社会の多数の成員の共同活動によってのみ、そればかりでなく、究極において社会のあらゆる成員の共同活動によってのみ動かされる。だから、資本は個人的な力ではない、それは社会的な力である。したがって資本が、社会の全成員に属する共有財産に変えられたところで 、それによって個人的財産が社会的財産に変えられるわけではない。変化するのは財産の社会的性格のみである。すなわち財産はその階級的性格を失うのである。

 

賃金労働の平均価格は、労働賃金の最低限度のものである。すなわち、労働者が労働者として生命を維持していくのに欠くことのできない生活手段の総計だけである。つまり、賃金労働者がその活動によって獲得するものは、単にかれのはだかのままの生命を再生産するに足るにすぎない。われわれは、生命そのものを再生産するにしかすぎないような労働生産物を、個人が取得することを廃棄しようとは決して思わない、そういう取得は、他人の労働を支配する力となるほどの純益を残しはしないからである。われわれのあくまでも廃止しようと欲するものは、ただ、労働者は資本を増殖するためにのみ生活し、そして支配階級の利益が必要としなければ生活することができないという、そんなみじめな取得の生活である。

 

個人的な考察

人が漏らす不条理の原因の多くが説明されており、モヤモヤの雲が晴らされた心地すらする。動員する規模が果てしなく大きいだけにところどころ理想主義的幻影に思えないこともないが、メモの止まらない一冊だった。


資本主義が地球全体の支配的位置付けにあるだけに、どんなプロセスでどのくらいの時間と犠牲をもって既存ルール・秩序の無視と運動、時代を見通した代替綱領やリーダーが現れるのかということを想像すると浅学なぼくの知識からは理想的で、難しいように思われる。システムの理解、思想、知ってしまった高いレベルの暮らしと消費の贅沢。

具体的な出口についての提言は持たないが、一人ひとりがシステムへの不満にとどまらず、その先に求める個人レベルでの理想の生、自分の周囲の安定、世界規模で持続可能に生きていくための社会という三段階についてのビジョンとアイデアを持つことがそもそも必要な気がする。


一人ひとりに残された想像の権利だけは放棄してはいけない、ということだろうか。