さぐりさぐり、めぐりめぐり

借り物のコトバが増えてきた。

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“生きる”を手繰り寄せる治療『旅をする木』より

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めまぐるしい日々の中で、身体的にも精神的にも磨耗し、それでも生きていかねばと奮いたたせる日々。気づけば視野は限定され、「身の周りだけが世界なのだ」と自分で納得している。

そんなことに気づいてハッとすることがある。今このときも、かつて旅したあの場所では、あの時間が流れているのだ。目の前に流れる“日常”と別の、もう一つの時間、もう一つの現実がたしかに流れているのだ。



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ナヴィンとプロヴィンは今日もヒマラヤの空を舞っているかもしれないし、ウガンダではチビたちが「いただきます」と言ってジャガイモのスープを頬張っているだろう。

旅をする木』と星野道夫さん

一冊の本を紹介したい。『旅をする木 (文春文庫)』。著者は写真家/探検家の星野道夫さん。大学を卒業後、アラスカ大学で野生動物について学ぶ。その後もアラスカを拠点に18年間主に写真活動、執筆などをしながら暮らし、44歳の時にヒグマに襲われて亡くなった。

旅をする木 (文春文庫)

星野 道夫 文藝春秋 1999-03-01
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 その本の美しい文章を読むたび、何か治療を受けているような気持ちになる。


「そうだよな、本当はそんなふうに生きたっていいんだよな」

 

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作中に登場するアラスカの人々、誰のものでもない森をゆく動物たち、そして選択の自由をもって雄大で美しい人生を冒険した星野さんの息遣い。クマにおびえる夜営のテント、広大な原野から戻ってきたときに見た集合体としての街の明かり、孤独の贅沢。旅をする木

 

「生かされている」ことを理解させてくれる自然

アラスカの自然を旅していると、たとえ出会わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も怖れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。

 24時間人工灯の絶えない東京の夜、徒歩圏内にあるコンビニでは加工食品から肉に野菜までなんでも手に入る。消費一辺倒な暮らし、離れすぎた生産と消費の距離、間にある仲介・プロセスの多さ、ブラックボックス。ぼくたちの暮らしは何のうえに成り立っているのか、わからなくなっていた。見えなくなっていた。

 

人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。

 手の届く範囲で物事が完結したとき、ぼくははっきり理解した。さっき仕留め、絞めたあの鹿をバラし、さっきまで生きていたことを疑うくらい見事に肉になったその生命が今食卓に並んでいる。自分の足で立つぼくたちは「生きている」とずっと教わってきた。しかし、それは間違っていた。ぼくたちは無数の生命や自然のもたらす恵みを授かり「生かされている」のだ。

 

抗うことなく自分に従う。人生は一本の川のよう

誰もが何かを成し遂げようとする人生を生きるのに対し、

ビルはただ在るがままの人生を生きてきた。

それは自分の生まれもった川の流れの中で生きてゆくということなのだろうか。

ビルはいつかこんなふうにも言っていたからだ。

「誰だってはじめはそうやって生きてゆくんだと思う。ただみんな、

驚くほど早い年齢でその流れを捨て、岸にたどり着こうとしてしまう」 

車窓を眺めていても、そこに映っているのは景色ではない。不安な未来と過去が限定する可能性の狭まりだ。いつも誰かに見られている、気がする。

 

ぼくはやはり考えてもしまうのだ。残された人生の時間を思った時、それは一体何になるのだろうかと。(中略)

世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える‥ビルの存在は、人生を肯定してゆこうという意味をいつもぼくに問いかけてくる。

 

自由が溢れる。一人であることの贅沢

町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。

知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、

これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。

今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない

それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。

不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。

天井から吊るされた大きなファンが回転している。身体をくすぐるなま暖かい風を浴びたら考える。「今日は何しようか。どこへ行こうか。」この街に自分を知っている人は誰もいなくて、今日何をするかも明日どこへ行くかもすべて自分で決められる。全部自分で選択する贅沢よ。

 

一人だったことは、危険と背中合わせのスリルと、たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。(中略)

バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。

「旅」という名を借りた人生。荷物が軽くなるたびに見えるものは増え、人と歩くことで痛みを忘れられ、誰かとたどり着くことで「一人では来られなかった」と感謝する。予定通りでは出会えなかったすべての人や場所がそのままぼくの物語になる。

 

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誰と話していたわけでもないのに、たくさん話した後みたい。アラスカにもいつの日か。

 

旅について

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