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インドのちいさな出版社タラブックスが提示する現代社会のやり方への「?」とその代案

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黄色に赤に色づいた木々がまだまだ美しい12月の東京。都営三田線の終点、荒川堤防のすぐそば西高島平駅から歩いて約15分、板橋区立美術館にやってきた。

今、ここでは「世界を変える美しい本 -インド・タラブックスの挑戦」展が行われている。(※展覧会は2018年1月8日まで)

展覧会の詳細はこちら

「タラブックス」とは?

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タラブックスは南インドの都市チェンナイにある出版社だ。ギータ・ウォルフ氏とV.ギータ氏という2人のインド人女性によって1994年に設立された。今日まで脈々と受け継がれてきたインドの豊かな口承伝統文化を絵本にして世界へ届けるべく活動している。地域に伝わる神話に耳を傾け、民俗画家によって表現してもらい、それを出版まで組み合わせた文化の担い手集団である。タラブックスのつくる絵本は世界中で話題になっており、予約してその本が手元に届くまで1年以上かかることもあるという。

大量生産・大量消費真っ只中の20世紀末インド。貧富の差が激しく、受験に就職に熾烈な競争が繰り広げられるスピード要領社会において、タラブックスの絵本は一冊一冊民俗画家、編集者、デザイナー、印刷職人らによる手作業で大切に、そして時間をかけて作られる。
発展著しい途上国のインドでは、身分差別をはじめ世界でも最貧レベルの暮らしを余儀なくされている人々が無数に存在する。南インドも例外でなく、そういった人がたくさんいる。そんな中、タラブックスでは貧しい村の若者たちを印刷職人に育てるべく、職人たちは職業訓練にとどまらず、食事や寮での生活も共にしており、人間性・公共性も育んでいる。

時間をリスペクトする姿勢

「善きことはカタツムリのようにゆっくり進む」

インド建国の父マハトマ・ガンジーが残した言葉だ。

タラブックスは「時間」を蔑ろにすることなく、その価値を知る組織だ。
「本をたくさん売り、たくさん儲ける」という出版業界に限らない世界の秩序となっている資本主義的な考え方に、まるでアンチテーゼとも言える形で世に本を繰り出している。以下にぼくがタラブックスを知るきっかけになった書籍『タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる』(玄光社)の本文をいくつか引用したい。きっとタラブックスの掲げる理念や哲学がつかめるだろう。

つまり、タラブックスがしたことというのは、言葉が通じない地域で、歴史や文化的背景の詳細な資料もほとんどない状況で、出版に関する知識のない人びとと“対話しながら”絵本をつくり上げるという、社会学、人類学の域にもおよぶ活動だ。

 

今の時代は多くの選択肢があるように見えて、実はそのほとんどが同じようなものです。本当の“違い”というのはときに過激で、異質で、常識やぶりです。でもその違いは自分たちの文化と同じように 、対等に価値があり、世代を超えて受け継がれるべきものです。あらゆる違いは恐れるものや排除するものではなく、賞賛されるものなのです。

 

インドに行くと、自然とそのおおらかさに身を任せてしまうことがある。ふと自分を振り返る。私は「違う」ことを面白がれているだろうか。未知の異質なものに、周囲を見回して臆することなく「いいんじゃない」と表明できるだろうか。

 

注文を受けてたとえば「六ヶ月かかります」と告げたときに、相手がどんな反応をするのかを実は試してもいるのだ、とギータはいう。本の表面的な上澄みに対する評価ではない、その背後に広がるものづくりや働き方、考え方に共鳴してくれる人かどうかも、タラブックスにとっては重要なのだ。

 

締め切りというのは、ときに原動力になるし、全員がそこに向かって作業するゴールでもあるので悪いことではない。でも、あまりに締め切りにこだわると、中身は二の次で、間に合わせることそのものが目的という事態に陥りがちだ。(中略)でもタラブックスはそれをしない。納得できるまで時間を置き、再考し、何度でも話し合う。(中略)時間はすべての人に平等に流れているのだけれど、タラブックスの働き方を見ていると、使う人によって時間というのはずいぶんと違った性質のものになるのだと、当たり前のことに思い至る。

 

「合理性や時間の対価を求めて、彼女らを機械のように使うこともできます。しかし、それならば機械を使えばよいことです。人間が手で紙をつくるというのは、そういうことではない。この人数、このスピードでいい。みんなが昼寝できるくらいじゃないと!」

 

本(仕事)の質を保ちながら、私たち同士のよい関係性を保ち、働いている人たちとその仕事の関係性を保つには、比較的ちいさくあるということが大切なのです。 

“編集者”とはこんな仕事をする人のことを言うのか、と考えさせられる。「そこに在る文化・営み」と「価値のわかる消費者・受け手」の橋渡しを担っていることがわかる。いいことを言う人はたくさんいるが、本当のことを言う人はなかなかいない。

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タラブックス インドのちいさな出版社、まっすぐに本をつくる

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人の暮らしは太陽・月・宇宙とか水・土・木に依存している

ここまでタラブックスについて解説してきたものの、実はこの展覧会に来るまでぼくは実際にタラブックスの絵本を手にしたことはなかった。展覧会では実際に日本語版の出ている絵本に限らず、英語版も手に取れるので心ゆくままに手にとってじっくりと読んだ。

 

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早く読もうと思えば、どれも1冊5分くらいで読めてしまうほどの文量なのだが、その紙ざわり、選び抜かれた言葉、美しいイラストのどれもが圧巻であり、つくり手の息吹を感じられるのだ。


こちらは『世界のはじまり』という、お気に入り作品の制作風景動画。この動画自体の構成も素晴らしいのでぜひ見てほしい。

圧倒的な存在との接続感 

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ぼく自身インドには2回渡航したことがあり、タラブックスゆかりの街にも行ったことがある。タラブックスの絵本からインドの旅で出会い、感じた風景の記憶を思い出した。走る鉄道から眺めたデカン高原のミルク色のあけぼの、頭に大きな荷物を乗せて夕日の方へ向かって歩くサリーの女たち。

あのとき眺めた景色の中にこれほど豊かな文化が育まれ、脈々と受け継がれているのだということを知って土曜日の午前に幸福感に包まれた。

 

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思えば、太陽とか星とか宇宙とか、そんな大きなものと人間の暮らしの接続感を初めて感じたのはブッダガヤだった。ブッダガヤはインド東部にある最も貧しいと言われるビハール州にあるブッダが悟った地だ。南インドに拠点を置くタラブックスが南インドの民俗芸術家だけでなく、ビハール州のアーティストとも協働していることに驚いた。

月のない真夜中には、この世が終わってしまったのではないかというくらいの静寂に包まれ、太陽が地平線に現れる朝には鶏が鳴き、子供たちが外へ駆け出してきてキャッキャと騒ぎ出す。家々からは食事をつくる煙が上がり、女たちがせわしなく動いていた。「あぁ、人間の暮らしがこんなに太陽に依存しているなんて」と驚いたが、そうやって暮らしている人がまだこの惑星にはたくさんいるのだろうし、毎日自然の秩序に逆らわずに生活を営むことが厳しくもあるだろうけど、贅沢なことのようにも思えた。

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暮らしが太陽や雨、自然に基づいているということが民俗神話にも多く描かれている。

 

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そういえば2年前にバンガロールで英語を勉強していた時に、毎朝学校までの通学路で民家の玄関前に華やかなイラストが描かれていたことを思い出した。コーラムと呼ばれて、富や幸福を招くおまじないのようなもので、ヒンドゥー教徒の女性が毎朝行う習慣だ。

今でこそほとんどの人はチョークを使うが、昔はコメの粉や石灰石などで絵を描いていたそう。そう時間も経たないうちに鳥や牛に食べられてしまうのだが、「人間がお前たちより何よりも偉いのだ」とでも思っているようなこの時代に、肩を並べて恵みを分け合う彼女らの生活に気高さと美しさを感じる。また絵が消えることが実は「神の訪れ」を意味するらしい。インドでは決して神は遠い存在ではないのかもしれない。宗教的な建築物は至るところに見られるし、家の中にもガネーシャをはじめとしたレプリカが飾られていたり。

神を厚く信仰しつつも距離をとらないスタンスが、自然と対峙する彼らの豊かな想像力を働かせ、その生活の教訓を物語化(意味づけ)することに繋がっているのか、なんて思ったりしている。

こんなにも美しく愛おしい文化が生活レベルに残るインド。そんなことを考えていたら、もう一度、たまらなくインドに行きたくなってくるのだった。

『茨木のり子詩集』は整合性を保つための最後の砦

ぱさぱさに乾いてゆく心をひとのせいにするな みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを友人のせいにするな しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを近親のせいにするな なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを暮しのせいにするな そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい自分で守れ ばかものよ 

自分の不出来・不遇を他人や環境のせいにしてしまうことがある。
人間は環境に大きな影響を受ける生き物であり、関係性の中に生きている以上そうした外的要素に左右されることは珍しくない。

そういって自身の至らなさの原因を外に擦りつけて一時の救済を得ても、
その後やってくるのは深い自己嫌悪と、再び三たびうまくいかない惨めな自分の姿だ。

誰かのせいに、何かのせいにしてしまいたい。
自己の整合性が音を立てて崩れるその寸前に、いつもこの詩を思い出すのだ。

そう、これはぼくの最後の砦である。

茨木のり子さんのプロフィール

1926年生まれ。戦後詩を牽引した日本を代表する女性詩人。他にもエッセイスト、童話作家、脚本家でもあった。2006年に亡くなる。第二次世界大戦の渦中に自身の青春(15~19歳)が重なり、その様子は「わたしが一番きれいだったとき」に綴られた。有名なこの詩は国語の教科書にも載っていることで有名。

冒頭の詩の印象が強く、強い女性というイメージで見られる。しかし詩の中には献身的な妻としての、乙女としての一面、お茶目なところも詩に表れていて、出会ったこともないのに「かわいい人」という印象を抱く。

 

以下『谷川俊太郎茨木のり子詩集』より

ひとびとは探索しなければならない 山師のように 執拗に
<埋没されてあるもの>を ひとりにだけふさわしく用意された<生の意味>を

 

不毛こそは豊穣のための<なにか>

 

分別ざかりの大人たち ゆめ思うな
われわれの手にあまることどもは 孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと
いま解決できなかったことはくりかえされる
より悪質に より深く広く
これは厳たる法則のようだ

 

落ちこぼれ 結果ではなく 落ちこぼれ
華々しい意志であれ

 

さくらふぶきの下をふららと歩けば 一瞬名僧のごとくわかるのです
死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と

 

それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして
一人一人のつきあいが 小さなつむじ風となって

 

はたから見れば嘲笑の時代おくれ
けれど進んで選びとった時代おくれ
もっともっと遅れたい

 

あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…

 

また、この本の最後には茨木さんと大岡信さんの対談が入っていて、こちらもまた金言が散りばめられている。以下は茨木さんの対談コメントの抜粋。

 

だからやっぱりね、詩が好きだったのかなあと思うわけですよ。それに費やす時間は勿体なくないってことは。

 

何々主義、何々イズムというものに則って書くと、やっぱり足を取られることになりません?それで駄目になってゆく例は戦後でも多かった。むしろ衝動的なものを大事にして、衝きあげてくるものをどう書くかしかなくて。


「衝きあげてくるものをどう書くか」

瞬間を逃さないこと、留めようと書き記しもがくこと。

 

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茨木のり子詩集 (岩波文庫)

谷川 俊太郎 岩波書店 2014-03-15
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人生はもうずっと日曜日の午後なのか。『ベロニカは死ぬことにした』より

絶望的な気持ちで窓の外を眺めていた
紺碧の空と木一本見当たらないなだらかな丘陵地帯をバスはゆく
時折鮮やかなひまわりたちが揃いも揃って太陽の方を向いている

「ムズング!」
あんなに鬱陶しい視線と関わりを求められた昨日までがすでに懐かしい
降り立った新たな大陸はあまりに静かで、そして整然としている

城塞にぎゅっと詰めこまれた街とメセタはあまりに断絶され
ときどき荒野に見かけるのは羊飼いくらいだ 

わずか3日前、ウガンダのマサカを出発した夕方のバス
悶々としていた、あと少しで繋がると思っていた事象が
頭の中に誰もが一つ所持している「人生」という大傑作が
ようやく始まることを予感した

今を逃したら…そう思うと
よく揺れ、次第に暗くなる車内でも構わず
ボロボロの日記帳に書きなぐった

知らなかったよ
木になってるマンゴーがこんなに甘いなんて
さっき掘ったポテトが食卓に並んでるよ
水筒2本で身体が洗えるなんて
一晩にして5匹の命を産んだ母豚はその後胎盤を食べるんだ 

知らなかったよ
マラリアで入院する子の看病にマラリアの子が自転車を漕いで向かうんだ
教えてもらえないと人は前向いて歩きながらおしっこをするよ
エイズにならないためには?」というテストの正解はなんだかわかる?
「夜道を一人で歩かないこと」レイチェルの解答用紙にはそう書いてあったよ

知りたい
もっと知りたいよ
この世の中のまだ知らない
もしかしたらまだ見せてもらえていない
暗がりを
つながりを
ひかりを
真実を

 

お父さん、お母さん
俺はものかきになるよ

エドアード、おまえはもう自分の人生の責任を取れる年頃だ。わたしたちはこれまで、できる限り我慢してきたが、もういいかげん、絵描きになるなんてバカなことはやめて、自分のキャリアの方向を決めなければいけない年頃だ」

「でも、父さん、絵描きになることが、ぼくのキャリアなんだよ」

「おまえへのわたしたちの愛はどうなるんだ。おまえにいい教育を与えたいがために努力してきたことは?おまえはこんなじゃなかったはずだ。そして今起きていることが、事故のせいだと思わざるを得ないんだ」

「聞いてよ、ぼくは二人を、何よりも、世界の誰よりも愛しているよ」

大使は咳払いした。直接的な愛情表現に慣れていなかった。

「それなら、わたしたちへの愛のために、頼むから、おまえの母さんの望むようにしてくれ。しばらく絵を描くのをやめて、おまえと同じ社会階級の友だちとつきあって、また学業に戻るんだ」

「父さんはぼくを愛してるんだろ。なら、そんなことは言わないでくれよ。自分が大切にしてることのために闘って、いつもぼくのいい模範となってきたんだから、なのに、自分の意志もない男になれだなんて言わないでくれよ」

「わたしは愛のために、って言ったんだ。そんなことは今まで口にしたこともないが、今まさにおまえに頼んでるんだ。おまえのわたしたちへの愛のために、わたしたちのおまえへの愛のためにも、帰ってきてくれ。物理的な意味だけじゃなく、本当に帰ってきてくれ。おまえは自分に嘘をついて、現実から逃げているんだ。おまえが生まれてから、家族の人生がどんなものになるか、ずっと夢を描いてきたんだ。おまえはわたしたちの全てで、未来で、過去でもあるんだ。おまえの祖父たちは公務員で、外交の世界に入り、梯子を登ってゆくために、ライオンのように戦わなくてはならなかったんだ。そしてわたしも、おまえの場所を作るために、おまえが楽に生きられるようにがんばってきた。大使として、初めて書類に署名したペンをまだ持ってるし、おまえが初めて署名する時に渡せるように、今でも取ってあるんだ。わたしたちを裏切らないでくれ。永遠に生きていられるわけじゃないし、静かに死んでいきたいんだ。おまえが人生の正しい道を歩いていると安心しながらね。我々を本当に愛してるなら、言う通りにしてくれ。もし愛してないなら、このまま続けるがいい」


エドアードは何時間もブラジリアの空を見上げて、青い空を動いていく雲を見て過ごした。そんな美しい雲も、中央ブラジルの大平原の乾いた地表を湿らす雨は一滴も含んでいなかった。彼も同じくらい空っぽだった。

もし彼が今の自分のままでい続ければ、母親は悲しみで消えてしまい、父親もそのキャリアへのやる気を失くしてしまい、二人とも、息子の子育てに失敗したことを互いのせいにするだろう。もし絵を諦めてしまったら、楽園のビジョンは永遠に日の目を見ることはなくなる。そしてこの世界に、他に同じくらいの喜びや楽しみを彼に与えてくれるものはないだろう。

彼は周りを見ると、自分の絵を見つけて、ブラシ運び一つ一つに籠めた愛と意味を思い出したが、どの絵も平凡に思えてきた。自分は偽物でしかなく、自分にはない才能をほしがるあまり、親を落胆させてしまったのだ。

楽園のビジョンは、英雄や殉教者として本に登場するような、選ばれし少数のもので、すでに幼い頃から、世界が自分に何を望んでいるのかを知っている人のものだった。あの初めて読んだ本の中の、いわゆる真実は、物語作家の作り出したものだった。


夕食の時、彼は両親に彼らの方が正しかったようだと言った。ただの若者の夢に過ぎなかった、絵への興奮はもう冷めたと。両親は喜び、母親は泣いて、息子を抱きしめると、全てが普通に戻っていった。

その夜、大使は、秘かに自分の勝利を記念して、一人でシャンパンを開けて飲んだ。それからベッドに入ると、妻は数年ぶりに、すでに静かに眠っていた。

次の日、彼らはエドアードの部屋がひどく散らかっているのを見つけた。絵は切り裂かれ、息子は空を見上げて隅の方に座っていた。母親は彼を抱きしめて、どれだけ彼を愛しているかを告げたが、エドアードは何の反応も見せなかった。


彼はもう愛とは関わりあいたくなかった。もうどうでもよかった。容易く諦めて、父親のアドバイスに従えると思ったのだが、その作品に入り込みすぎていた。人を夢から隔てている深い裂け目を渡ってしまっていたから、戻ることはできなくなっていた。もう前にも後ろにも身動きが取れなくなっていた。いっそ幕を引いてしまう方が簡単だった。

 ▼引用元

ベロニカは死ぬことにした (海外シリーズ)

パウロ コエーリョ 角川書店 2001-02-01
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▼ソース

sagurimeguri.blog.fc2.com

「誰のための希望?」安田菜津紀さんと陸前高田の一本松

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10月から始まった毎日新聞社GARDEN主催の毎日ビデオジャーナリズムラボ。毎月一度、日曜日の午後に行われる市民ジャーナリズムにおける映像表現を学ぶ連続講座だ。半年間(全6回)続く当講座は、レギュラー講師にジャーナリストの堀潤さん、白鴎大学客員教授下村健一さん、毎日新聞社取締役の小川一さん。そして毎回異なるゲスト講師を迎えて進行されるワークショップだ。

 

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講義終了後の懇親会にて

第2回の11月26日、ゲストはフォトジャーナリストの安田菜津紀さん。実はフィリピンに滞在していた頃から共通の知り合いに安田さんについてお話を聞いたことがあったり、個人的にもかねてより楽しみにしている回だった。

安田菜津紀さんプロフィール
1987年生まれ。studio AFTTERMODE所属のフォトジャーナリスト。上智大学卒。16歳のときに「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアに子供記者として派遣され、現地の子供たちと日々を過ごしたことを原体験に伝える職業を選択。現在は東南アジア、中東、アフリカ、南米の貧困・難民問題、そして岩手県陸前高田市の震災後を記録し続けている。詳細はこちら

陸前高田市「希望の一本松」のエピソード

2011年3月11日の東日本大震災で甚大な被害を被った岩手県南端に位置する陸前高田市。震災前までこの街の海岸沿いには高田松原と呼ばれる7万本の松が立っていて、日本百景にも指定されていた。

しかし、津波によってほとんどの松の木がなぎ倒されてしまう。そんな中、一本だけ、津波に耐えて今なお海岸線に佇む松があった。

安田さんは夫・佐藤慧さんの実家があるこの街に震災後かけつけ、そのあまりに無残に波にのまれた街の様子をどう記録していくか戸惑ったという安田さん。ようやくしっかりとカメラで捉えられたのが、朝日を背景にした一本松の姿だった。

震災で多くを失ったこの街にようやく何かを掲げられる、そんな気持ちだったという。

夫・佐藤慧さんの父からの思わぬ反応

写真は新聞に掲載され、「希望の松」として当時世の中に拡散され、大きな反響を得た。その記事を持って、真っ先に向かったのが津波で生き残った義父のところ。希望を、力をシェアできる…はずだった。

しかし、義父の反応は想定外のものだった。 

 

「なんでこんなに海の近くに寄ったんだ!」

佐藤さんの母は震災で亡くなった。 

 

「あなたのように、震災以前の7万本の松と一緒に暮らしてこなかった人たちにとっては、これは希望に見えるかもしれないよ。だけど僕たちのようにここで生活してきた人たちにとっては、あの松林が一本“しか”残らなかったんだって、波の威力の象徴みたいに見えるんだよ」

シャッターを切る前にすべきこと、それは人の声に耳を傾けるということ。安田さんはこのとき、そう学んだという。

※このあたり詳細は安田さんの著書『写真で伝える仕事』にも記載されているのでぜひ。

写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-

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誰のための希望?

朝日を背景にそびえる一本松。絶望の中に見つけた命の姿。体力的にも精神的にもハードな取材の中で出会ったその光景、もし自分が同じ状況で対峙したらどうしただろうか。

インタビューや取材を記事にするときにいつも考える事なのだが、取材者というのは結構骨の折れる仕事だ。現地に入って、それを外の世界に伝える上で大切なのは「代弁」だ。そう思っていた。

しかし、どう考えても「代弁」と呼ぶには外せないであろう伏線を省かざるを得ないことばかりだ。書き手に解釈や編集権を委ねられる以上どうしても、ある人にとっての公正な報道にならないこともある。

昨今マスコミが世間で叩かれる中、元NHKキャスターの堀さんは言う。「多くは悪意なき選別作業なんです」と。

 

同じく撮影も、いや、撮影こそ瞬間に編集・選定作業が行われ、“撮影者の”心情が宿る。安田さんの写した一本松は、自身の、そして希望の見えない日本全国でニュースを見ている人々の「救われたい」という想いだったのかもしれない。

その表現が何に寄り添いたいものなのか、どんな結果を期待するのか。そして狙い通りでも、図らずともどんな結果をもたらすのか。

 

「誰のための報道」か。

日常は充実しているか?

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6月から毎週土曜日は宣伝会議主催の編集ライター養成講座に通っている。ある日の講義に登壇された吉良俊彦さんがイントロの自己紹介でお話されていた自身の職業人生におけるターニングポイントに関する言及が興味深く、それがあまりに身に覚えのあるテーマだったので、自分の考察をここに残しておきたい。

※講座内容について紹介は厳禁なので、講義本筋についての紹介は控えます

 

▼吉良俊彦さんプロフィール

マンガデザイナーズラボ代表。上智大学法学部卒業後、株式会社電通に入社。様々なラグジュアリーブランドをはじめ、各社のメディア戦略およびプロジェクト、FIFAワールドカップ等のスポーツ・文化イベントの企画プロデュースを行う。電通退社後マンガデザイナーズラボを2011年に設立。

大阪芸術大学デザイン学科客員教授/日本女子大学講師/中国伝媒大学客員教授

 

「この人には一生勝てない」

電通入社後、新人ながらコピーライターとして成果を出し続けていたという吉良さん。元より“情報をまとめて一言で表現する能力”には自信があったと言う。

そんな吉良さんが一瞬にしてコピーライターとしての自身に懐疑的になった出来事、それが糸井重里さんとの出会いであった。

 

糸井重里さんのコピー

じぶん、新発見

不思議、大好き。

おいしい生活

*1

当時すでに売れっ子コピーライターとして活躍し、ジブリ映画のコピーも手がけていた糸井さんと出会ったのは電通2年目の頃。

 

「あー、この人には一生かかっても勝てないだろうなあ」って悟ったんです。

自身もコピーライターとして実績を積み上げていた吉良さんは、この出会いを境にコピーライターからプロデューサーへと転身する。一体吉良さんの中で何が起こったのだろうか。

 

電通っていう巨大企業に所属して、会社の後ろ盾を受けながらコピーを書いてる俺が、命を懸けて世の中に身体一つで体当たりしている糸井さんには絶対勝てないなってわかったんですよね。

吉良さんは「一番になれないならその仕事をしている意味はない」という理由でプロデューサーの道を選択した。

 

日常は充実しているか?

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編集者やライターというと、往々にして“激務”のイメージがつきまとう。ぼく自身仰々しくもその肩書きを背負うとすれば2年弱、やり方なんてわからないまま、ひたすらPC画面に向き合ってきた。

 主にフィリピンに駐在しながら、取材に行ったり、外部ライターと連絡をとったり。ライティングと編集の両方を一人担う日々に余裕なんてなかった。いっときは夜中3時に寝て、朝は9時に起きるという生活を続けていた。職住一致の特殊な環境だったので、起きるとすぐにモニターに正対していた。

 「やらねば」という空気感が会社に漂っていたことも事実ではあるが、それ以上に自分が自分に義務付け、強制していた面が大きかった。良くも悪くもまともにライター・編集者としてのスタートがきれなかったこと、自分を管理・評価する存在が周りにいないことを十二分に意識して、せめて周りのどんな人よりも“仕事”していなければという観念が働いていたのだ。(当然、そんなマインドセットの中で良い仕事はできなかった)

 ライターと編集者、具体的な業務領域は異なるし、媒体によって何を伝えるのかは違ってくる。しかし、読者にとって「面白い!」「へー、そうなんだ!」という新鮮さ、発見をもたらす「コンテンツをつくる」という使命では一致するはずだ。

 

講座受講生に吉良さんは問う。

皆さんの日常は充実していますか?

ハッとした。読者の日常生活におもしろいコンテンツを届ける役目を担っているはずの自身の日常がまるで灰色だったことに。同時に、この“日常”の差が吉良さんと糸井さんを隔てたものだったのだろう、とも思う。

 

「ちゃんとメシ食って、風呂入って、寝てる人にはかなわない」

“ほぼ日”の愛称で親しまれる『ほぼ日刊イトイ新聞』を読んだことのある人は多いだろう。ぼくも日常的に記事を読んだり、糸井さんの本を読んだりする。糸井さんの手がける言葉は、誰を批判・攻撃するわけでなく、柔らかく暖かいものが多い。

 大学を中退し、大きな組織には属さずに一人世の中の風にその身を晒し続けてきた糸井さんの綴る・選ぶ言葉には誰しも共感を覚えずにはいられない深みが備わっている。

 

そんな糸井さんに関する記事で印象深いものがある。

dot.asahi.com

過剰労働が日々のニュースを賑わし、よく働くこと(「たくさん働き」の意)が未だ評価基準としてどっしり居座っている日本社会において、糸井さんがこのメッセージを発していることに一体どれだけの人が希望を見ただろう。

 もちろん、引用記事に記述されている通り、糸井さん自身も一貫してこの習慣を守ってきた人ではない。『ほぼ日刊イトイ新聞の本』を読めば、ほぼ日をつくるのに、糸井さんがどれだけタフな日々を送っていたのかもわかる。

 引用記事をはじめ糸井さん自身も「忙しいこと」を悪としているわけではない。その忙しさが“仕事の下僕”によるものではないかというところが肝だ。それにはぼくも同意する。前のめりな忙しさは一概に拒絶するものではないと思っている。義務感から来る「仕事しなければ」はコンテンツの作り手にとって最大の敵である。

 その忙しさによって、編集者・ライター自身が「おもしろいこと」「感動」「発見」という日常で与えられるはずの事象を侵されていないか?ということを立ち止まって一度考えてみる必要がある。ぼくたちがおもしろい日常や人生のドラマを生きられていなければ、そこから人を動かすコンテンツが生まれることは絶対にない。

 簡単に解決できないのはうんざりするほどわかっている。それでも、この日曜日の午後みたいな曇天に一筋の光がさしたような気がする。

 

 

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早速と繰り出した東京の街は紅に黄色に色づいていた。

 

(色々発展・関連させられそうなテーマなので、今後の更新で関連記事を書いていく予定です。)

▼吉良俊彦さんおすすめの一冊

塑する思考

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