“生きる”を手繰り寄せる治療『旅をする木』より
めまぐるしい日々の中で、身体的にも精神的にも磨耗し、それでも生きていかねばと奮いたたせる日々。気づけば視野は限定され、「身の周りだけが世界なのだ」と自分で納得している。
そんなことに気づいてハッとすることがある。今このときも、かつて旅したあの場所では、あの時間が流れているのだ。目の前に流れる“日常”と別の、もう一つの時間、もう一つの現実がたしかに流れているのだ。
ナヴィンとプロヴィンは今日もヒマラヤの空を舞っているかもしれないし、ウガンダではチビたちが「いただきます」と言ってジャガイモのスープを頬張っているだろう。
『旅をする木』と星野道夫さん
一冊の本を紹介したい。『旅をする木 (文春文庫)』。著者は写真家/探検家の星野道夫さん。大学を卒業後、アラスカ大学で野生動物について学ぶ。その後もアラスカを拠点に18年間主に写真活動、執筆などをしながら暮らし、44歳の時にヒグマに襲われて亡くなった。
旅をする木 (文春文庫) 星野 道夫 文藝春秋 1999-03-01 売り上げランキング : 1227
|
その本の美しい文章を読むたび、何か治療を受けているような気持ちになる。
「そうだよな、本当はそんなふうに生きたっていいんだよな」
作中に登場するアラスカの人々、誰のものでもない森をゆく動物たち、そして選択の自由をもって雄大で美しい人生を冒険した星野さんの息遣い。クマにおびえる夜営のテント、広大な原野から戻ってきたときに見た集合体としての街の明かり、孤独の贅沢。旅をする木。
「生かされている」ことを理解させてくれる自然
アラスカの自然を旅していると、たとえ出会わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれは何と贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマが消え、野営の夜、何も怖れずに眠ることができたなら、それは何とつまらぬ自然なのだろう。
24時間人工灯の絶えない東京の夜、徒歩圏内にあるコンビニでは加工食品から肉に野菜までなんでも手に入る。消費一辺倒な暮らし、離れすぎた生産と消費の距離、間にある仲介・プロセスの多さ、ブラックボックス。ぼくたちの暮らしは何のうえに成り立っているのか、わからなくなっていた。見えなくなっていた。
人はその土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そしてその行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。
手の届く範囲で物事が完結したとき、ぼくははっきり理解した。さっき仕留め、絞めたあの鹿をバラし、さっきまで生きていたことを疑うくらい見事に肉になったその生命が今食卓に並んでいる。自分の足で立つぼくたちは「生きている」とずっと教わってきた。しかし、それは間違っていた。ぼくたちは無数の生命や自然のもたらす恵みを授かり「生かされている」のだ。
抗うことなく自分に従う。人生は一本の川のよう
誰もが何かを成し遂げようとする人生を生きるのに対し、
ビルはただ在るがままの人生を生きてきた。
それは自分の生まれもった川の流れの中で生きてゆくということなのだろうか。
ビルはいつかこんなふうにも言っていたからだ。
「誰だってはじめはそうやって生きてゆくんだと思う。ただみんな、
驚くほど早い年齢でその流れを捨て、岸にたどり着こうとしてしまう」
車窓を眺めていても、そこに映っているのは景色ではない。不安な未来と過去が限定する可能性の狭まりだ。いつも誰かに見られている、気がする。
ぼくはやはり考えてもしまうのだ。残された人生の時間を思った時、それは一体何になるのだろうかと。(中略)
世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える‥ビルの存在は、人生を肯定してゆこうという意味をいつもぼくに問いかけてくる。
自由が溢れる。一人であることの贅沢
町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。
知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、
これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。
今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない…
それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。
不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
天井から吊るされた大きなファンが回転している。身体をくすぐるなま暖かい風を浴びたら考える。「今日は何しようか。どこへ行こうか。」この街に自分を知っている人は誰もいなくて、今日何をするかも明日どこへ行くかもすべて自分で決められる。全部自分で選択する贅沢よ。
一人だったことは、危険と背中合わせのスリルと、たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。(中略)
バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。
「旅」という名を借りた人生。荷物が軽くなるたびに見えるものは増え、人と歩くことで痛みを忘れられ、誰かとたどり着くことで「一人では来られなかった」と感謝する。予定通りでは出会えなかったすべての人や場所がそのままぼくの物語になる。
誰と話していたわけでもないのに、たくさん話した後みたい。アラスカにもいつの日か。
▼旅について
【パラレル親方】その船に飛び乗る準備はできている
2017年が終わるまでに早くも10日をきっている。イルミネーションとクリスマスソングに浮かれた街は例年に倣って賑やかだ。来たる2018年1月6日、ぼくは25歳を迎える。そして同時に肩書きが無くなる。
9月に退職してから業務委託で請け負ってきた前職WEBメディアの編集職を年内で終了、さらに1月5日いっぱいで現在の自動車工場期間工の契約期間が満了するため、正真正銘の“無職”予定だ。
とはいえ、今後についてのアイデアも勝算もある。今回はぼくの“大切な”25歳を賭けてみようと思っているパラレル親方という企画と個人的な考察について書いていきたい。
▼パラレル親方の概要についてはこちら
会社は自分を育ててはくれない
ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んで確信していることがある。命とは時間のことだ、と。
2016年4月にライターインターンとして参加したスタートアップのWEBメディア。多くのベンチャー企業がそうであるように出入りが激しく、入社後3ヶ月で突然書き手は自分一人となり、自然に編集長の役割を担うことになった。
書き手としてのステージが参加動機だったが、業務の重心は収益化・外部ライターのマネジメントといったビジネス領域へと移った。一つひとつのコンテンツに時間と力を注ぐというよりは、いかにPVを伸ばして媒体価値を高め、収益に繋げられるかというコマーシャルメディアの様相。
そこからは思いもよらない学びも多くあったが、「このままでいいのか」という不安が消えることはなかった。そんな動機を社長に話し、参加の形を正社員から業務委託に変更した。週末は会社のお金で編集・ライター養成講座にまで通わせてもらって、改めて感謝してもしきれない。
毎週代わる代わる登壇される出版・広告・新聞・WEB業界の著名な講師のお話はとても面白く、大切な学びとなった。しかし、100人を超える受講生を相手にする授業形式ではフィードバックが限られ、一人前のライターとして船出できるかと言われれば難しい。 いろんなイベントに参加したり、人のお話も聞いたが、総じて得られる回答は決まっていた。「会社も人を育ててはくれないよ」と。迎える25歳、「若い」と言える時間も限られてきた今、次の一手を真剣に悩んでいた。
最短で自分を引き上げる「弟子」という手段
そんな時、なんとなく手に取った山口揚平さんの『そろそろ会社辞めようかなと思っている人に、一人でも食べていける知識をシェアしようじゃないか』にあった本文が目から鱗だったので引用したい。
一番大事なのはどこに就職するかではなく、どんな「師匠」を持つかです。まず誰に付いてゆくのか、能力的にも人格的にも心から尊敬できる人を探し出し、なんとか食らいついてゆく。本を読み、メールを書き、セミナーでも講演でもいいですがとにかく会いに行く。そしてゆっくりと距離を縮めてゆく。丁稚奉公をしながら学ぶという昔ながらの方法がもっとも効率良く仕事のスキルを得られる方法なのです。
確かに、創造的な仕事をする人には弟子の時代を過ごしたケースが多い。
人が努力で変えられるものは限られている。人間は環境に依存している
ぼくはこれまで「努力」の可能性をひとえに信じてきた。しかし、最近では「人が自力で変えられるものは案外少ないのでは」と考えている。
例えばぼくの大好きなバスケットボールのこと。中学・高校カテゴリのバスケットボール界で優勝旗を独占している県がある。それは「福岡県」だ。さらに一つの学校が決まって強いのではなく、その競争力が恐ろしい。地区大会の決勝がそのまま九州大会の決勝戦で、全国大会でも両校がベスト4に入る、などが毎年のように実現されている。また、他県の強豪校に進学する例も多く、裾野を広げて考えると、もはやバスケットボール界にとって福岡県は「マフィア」なのだ。
現在日本代表として活躍している選手にも福岡県出身の選手が一際多い。
▼福岡県出身のプロバスケットボール選手
・比江島慎選手(シーホース三河)
・ベンドラメ礼生選手(サンロッカーズ渋谷)
・金丸晃輔選手(シーホース三河)
(他多数)
これには中学などアンダーカテゴリーに優れた指導者や競争環境が用意されていることが一番の原因なように思う。「当たり前のレベル」が他県と一線を画しているのだ。
あらゆるものごとにもこの構図は当てはまると思っていて、結局人が努力でできることがあるとすれば「十分な考察のもと、自分を引き上げてくれる環境を選び、たどり着けるか」に限られるのではないだろうか。場所や環境が人に与える影響は計り知れない。
パラレル親方応募のきっかけ
ここまで記述してきた思考から、最短で書き手として独り立ちするには弟子になるしかない、そう確信したちょうどそのときに以下の記事が目に入った。
兼ねてよりTwitterで注目していた望月優大さんがスマートニュース株式会社を独立したという内容の記事を12月1日に公表した。望月さんがBAMPで連載している「旅する啓蒙」や、Twitterで紹介される書籍「#望月書房」をインプット源の一つとしていたぼくにとっては願ってもない機会。「動くなら今だ」そう思ってメールを作り始めた。
すると、翌日にはなんと望月さんが親方候補としてパラレル親方に参加するというニュースが入った。フックアップについて望月さんと対談されていた徳谷柿次郎さんが企画しているというのだから間違いない。本気で自分のためのイベントなんじゃないか、そう思いながら急いで、しかし真剣に応募フォームを埋めた。
WEBメディア業界の課題とパラレル親方
TwitterをはじめとしたSNSで回ってくるメディアの記事を読めば、少数の人気ライターが媒体を超えてあらゆるテーマに奔走している様子がわかる。パラレル親方の親方衆はまさに引っ張りだこな存在だ。
上が詰まっていてチャンスが回ってこないという面もあるが、稀有な例を除いて若手にそれを凌ぐ力がないということも事実。多くのWEBメディアが実力者をハンティングはするが、育てることはしない。これによって、仕事はますます現在の人気ライターに集中し、彼らの時代の終わりとともに業界自体が力を失う。つまり、ライターや編集者を育てるということが、当事者である若手ライター・編集者に取っても、大御所にとっても、さらにはWEBメディア業界の生存戦略でもあるのだ。
一対一の師弟という関係ではお互いの負担と期待のバランスをとることは難しいが、弟子をシェアして仕事を振ることができれば、師匠の負担も軽減され、弟子側も書くことで食っていける。まさに願ってもない企画である。
12月19日 パラレル親方キックオフイベントより
イベント会場には80名の応募者から選ばれた約40名の弟子候補が集まった。イベントの内容自体は他の参加者のレポートを参照いただきたい。
【イベント記事】「パラレル親方」の話と、「文化の裾野を広げる」ということ。zonozonoblog.wordpress.com
気になる親方〜イベントに参加してみて〜
▼望月優大さん
パラレル親方に応募しようと思ったきっかけ。上述したように良質なインプット源であると同時に、「スタディクーポン・イニシアティブ」など社会課題をクリエイティブに解決するため精力的に動く姿に大きな可能性を感じている。もしもご一緒できるのであれば、考えるための時間を惜しみなく差し出す予定。
▼モリジュンヤさん
以前からいくつかのメディアで気になっていた存在。実際にお話を伺ってみて、本質を追求する問答にソクラテスのような印象を受けた。思考することを惜しまず、書くことで稼いでいくというやり方がスッと受け入れられた。弟子の岡田さんとのお話も刺激的で、オススメいただいたヨリス・ライエンダイクの『なぜ僕たちは金融街の人びとを嫌うのか?』に読みかかっている。
▼長谷川リョーさん
弟子の小原さんとのやりとりにもっとも親方気質を感じた。企業のインナーコミュニケーションなど、編集・ライティングからの発展、マネタイズのアイデアが豊富で、「ライター・編集者として食って行く」というテーマに対してもっとも現実的な手札を持っている印象を受けて興味を持った。
▼徳谷柿次郎さん
ご自身の経験を「パラレル親方」というクリエイティブな仕組みに落とし込む大胆さに好感を持った。人の移動を促進したい、人は場所や環境に依存するということをテーマにする自分にとって、「移動」を絶やさない徳谷さんの姿勢には全面的に賛同できる。
岩辺智博にできること、そして何を賭けられるかについて
最後に今の自分の能力、betできるものを提示しておきたい。
興味/関心領域
人の移動/宗教/民俗/歴史(地域問わず)/貧困/犯罪/スピリチュアル/映画/本/行動心理学/発達障害/マーケティング/ブランディング
テーマ:人の移動を促進すること
ポートフォリオ
▼メディア
2016年6月より編集長として、サイト内の全ての記事を編集・確認。中でも特に力を入れた記事をセレクト。
▼人物インタビュー
▼企画記事
▼考察記事
▼レポート記事
▼旧個人ブログ(紀行文中心)
何を賭けられるか
・25歳という時間
→書くこと・読むこと・体験すること・知ることは全て文字化できます。これは仕事であり、趣味であり、人生そのものなので、時間をそのまま差し出すことに抵抗はありません。
・親方のオフィスがある街への引越し
→1月6日からの住処が未定なので、何処へでも。
・数ヶ月都内で暮らせる資金的余裕
→「フルで面倒は見られない…」「最初から食わせられるほど仕事を振れない」といった懸念もあるかと思いますが、数ヶ月都内で暮らしていけるだけの貯金はしてきたので案件ごとのお仕事からでも受けたいと考えています。
親方の皆様へ
港でその船を待っています。飛び乗る準備はすでにできていますので。
連絡先:tomohiroiwanabe0106[at]gmail.com
【昨日みたいな今日】24歳の不安と憂鬱を動画にした
生まれてはじめて【動画】を自作した。
細かく分けて言えば、構成・撮影・編集(主演)という工程を一通り。
昨年あたりから、タブーに切り込むカナダ発のWEBメディアVICEに魅了され、動画という表現方法の訴求力に興味は持っている。言葉や写真という手段に加えて、動画もちょっとかじってみようと毎日ビデオジャーナリズムラボに参加している。
月に一度の講座では毎回課題が設定され、iMovieの操作方法もろくにわからないまま取り掛かってみたらこれが意外と面白い。ロング(引き)とアップ(寄せ)を交互に組み込むなど基本的な技術はもちろん、動的なカットと静的なシーンのバランス、一つ一つの動画の区切り方・組み合わせ方、言葉の載せ方、音楽の入れ方などの感覚的な気持ち良さを追求する作業に気づけばのめり込んでいた。
昔から時折、ミュージシャンの曲のPVを取り憑かれたように見てしまうことがある。動画制作はそんな中毒性の裏側を探るようで面白いし、技術以上にこれまで観てきたPVからいくつものアイデアやパターンを引用できたことが制作において大きなアドバンテージになったと振り返っている。
▼今回の課題
「多様性」「幸せ」「不安」のいずれかをテーマにつくった詩をベースに映像化。ポイントは多様な画角・光の効果・ストーリー性を意識。その動画にフリー素材の音楽を使用。
「昨日みたいな今日」24歳の不安と憂鬱を映像にする
【作中詞】
昨日みたいな今日 今日みたいな明日
昨日みたいな今日 今日みたいな明日
昨日みたいな今日 今日みたいな明日
昨日みたいな今日 今日みたいな明日
もうずっと 退屈な日曜の午後みたい
明日は 今日なのかもしれない
昨日みたいな今日 今日みたいな明日
曇天、孤独、変わらない日々をテーマに「不安」を表現できたのではないかと思っている。観ている人に解釈させる前にシーンを切り替え、ザラッとした余韻を残す。同じシーンを散在させることで日々のループ感を表現した。
しばらく洗っていなそうな仮住まいの煎餅布団と乾かしていない汚い長髪、深夜のカップ麺はまったく演技じゃないけど…。
P.S. 鬱のときは五木寛之にかぎる
社会のあらゆる分野で、躁から鬱への転換が起こる暗澹とした時代に、自己啓発の本がよく読まれる背景には、自分の生き方をちょっと変えることで世界が変わるかもしれない、という希望を誰もが失いたくないということがあるのでしょう。
下降していく社会と、個人的には上昇していこうとする人たちの摩擦、どこにも出口の見えない閉塞した社会、うだつのあがらない自分自身へのやり場のない怒り、なんとか自己を啓発してもっと幸せをつかむのだという姿勢は否定しませんし、抑圧されたまま発酵してガスが出ているような鬱の気分が、多くの人を心の病に向かわせているのではないでしょうか。
私は若い人たちに向かって、もっと元気を出せとか、夢をもとうなどというつもりはありません。ただ、世の中とはままならないものだということは、しっかりと受けとめなければならないと思います。
▼こちらの書籍より引用
人間の覚悟 (新潮新書) 五木 寛之 新潮社 2008-11-01 売り上げランキング : 16027
|
移動時間の豊穣。宮本常一が父から授かった手紙と共に
長距離バスや列車に乗って、車窓から知らない街を、田畑を、川を眺めているのがいい。
雪原の中を一直線に北へ向かう各駅停車の東北本線では、乗っては降りていく乗客のおしゃべりに耳を傾けるのが楽しい。方言で今日の出来事を話す高校生たちの素朴さがいい。黒磯を過ぎたあたりから一気に雪深くなる。数十キロ先の異世界。
夕日に照らされた緑色の草を喰む色とりどりの牛たち。ボディムルシ族の人々は茶色の中に無数の色の名前をつけて呼んでいるのだそう。
移動時間は豊穣のとき。目的地に到着することがどこか心寂しく思えることがある。決して短くはない距離をここまで運んできてくれた列車が、すでに次の駅へ向かうため押しボタン式の扉を閉め、進行方向にノロノロと動き出している。「到着してしまったじゃないか」と。
一、 汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
二、 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。
三、 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
四、 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
五、 金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
六、 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない、すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。
七、 ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
八、 これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならない。
九、 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。
十、 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大切なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
▼書籍はこちら
忘れられた日本人 (岩波文庫) 宮本 常一 岩波書店 1984-05-16 売り上げランキング : 2687
|
テレビの前のみなさん、ラジオを聴いてるあなた
ここ数年めっきりテレビを見なくなった。ぼくの周りにはテレビを見なかったり、そもそも一人暮らしの部屋に置いていないという人も多い。時折サッカー日本代表の試合とかライブ性のある番組は観たくなることがあるけれど、狙って何を見たいというのはない。たまたまテレビをつけていたら、北海道の漁師のドキュメンタリーが始まって見入ってしまったとか、偶然得した気分になることもあるから「テレビが面白くない」という一辺倒な否定はできないだろう。
それでもやっぱりテレビには「自分宛て」の情報は限られている。
ではテレビを見なくなった分、何をするようになったのか。単純に慌ただしいというのもあるが、本を読んだりインターネットにアクセスして情報や知識を得たりしている。本やWEBメディアで得られる情報というのは、ある程度、意図的に選択しているというだけあって圧倒的にテレビよりもジャストミートすることが多い。これは自分のために書かれているんじゃないかと思えるコンテンツもたくさんある。同時にそうやって摂取する情報は偏ってしまってはいないか、という心配もあるのだが…。
これはどっちがいいとかの好みの話じゃなくて、それぞれの性質の問題である。今回はそんな媒体特性についてのお話。
「ラジオの前のみなさん、こんばんは」
宣伝会議主催のある日の講義、博報堂ケトルCEOの嶋浩一郎さんがお話されていたことがとても興味深かった。
2009年にフジテレビとの専属契約満了後、フリーアナウンサーとなって他局へ出演する過程でラジオにも出演することになった滝川クリステル(敬称略)のお話。
なんでも、第一声でラジオリスナーをがっかりさせてしまったのだそう。以下がそのときの冒頭挨拶。
「ラジオの前のみなさん、こんばんは」
至って普通な響きに聞こえるが、実はこの“みなさん”という部分がリスナーからの「滝川クリステルはやっぱりテレビの人。わかってないな」という声の理由だったのだとか。ラジオと言えば、車の運転中に聞いていたり、一人夜の部屋で流していたり、多くの場合“一人で”それを聞いている。
リスナーとしては、それを全国で自分以外の人が聞いていることがわかっていても、自分に向けて届いているものであってほしいという想いがどこかにあるのだろう。「ラジオの前のあなた」として楽しみに聞いている(多くは無意識に)。MCが音楽を「お送りする」という表現などはそんなニュアンスを感じる。
天才ラジオパーソナリティ、中島みゆき
上記の例とは逆に、ラジオの文脈を天才的に理解しているパーソナリティがいるという。それが国民的シンガーソングライターの中島みゆき(敬称略)だ。
実際に中島みゆきがパーソナリティを務める番組を聞いたことはないが、1970年代から2010年代の今日までオールナイトニッポンなど多くの番組に出演しているところを見る限り、多くのリスナーの心を掴んでいたのだろう。「あなた」とか「あんた」と呼びかけられながら、まるでラジオ越しにそこで話しかけられているような体験にリスナーは中毒になってしまったのかもしれないな、とか想像できる。
彼女の名曲『ファイト!』が番組に寄せられた手紙をきっかけに生まれたという話は有名だ。中卒の17歳の少女が理不尽な世の中に屈折する寸前、助けを求めるかのように中島みゆきに向けて書いた手紙だ。このエピソード自体にラジオパーソナリティとしてリスナーの心に肉薄していた様が伺える。
ラジオの前では「あなた」と呼ばれたい。呼んでほしいのだ。
マスとWEBのコミュニケーションも
ラジオパーソナリティとして二人の例を引き合いに出して紹介してきたが、テレビや新聞をはじめとしたマスコミと、驚異的なスピードで浸透したWEB、SNSの対比はテレビとラジオの関係性をもって説明できる、と嶋さんは言う。
確かにWEBでコンテンツをつくるときには、想定読者のターゲティングとその読者にどう寄り添えるかを考えることがもっとも重要な工程になる。誰もが表現者になれるだけに、ジャンクな情報も溢れてきていることは確か。それでも声を上げ続けること、ぼくたちが内包する課題について、自覚することなく悶々とメッセージを待っている人たちがたくさんいる。もしその課題を言語化できるのであれば、そこには発信する使命が宿る。そうやってしかるべき読者に届いたメッセージは恐ろしいほどのシンクロを引き起こすのだ。
誰もが「自分宛て」を探している。
ということでAmazonで購入した中島みゆき全歌集を読んで、聴いて勉強することにしよう。
最近『命の別名』ばかり聴いている。
▼書籍はこちら
中島みゆき全歌集1987-2003 (朝日文庫) 中島みゆき 朝日新聞出版 2015-11-06 売り上げランキング : 126910
|
中島みゆき全歌集2004-2015 中島みゆき 朝日新聞出版 2015-11-06 売り上げランキング : 60796
|
▼嶋浩一郎さんのおすすめ書籍はこちら
ブランド「メディア」のつくり方―人が動く ものが売れる編集術 嶋 浩一郎 誠文堂新光社 2010-10-01 売り上げランキング : 80042
|
ふたご座流星群を見ると思い出すのは
深夜1時30分。習慣になっている夜更かしの途中、ちょっと作業のおともを探しにと歩いて5分のコンビニに向かう。途中、右手に大きな公園があって、真ん中のグラウンドを囲む背の高い木々の合間からは都内だというのに意外なほどクリアな星たちが顔を覗かせている。
昨日や一昨日と何一つ変わらない住宅街の夜道をボーっと歩いていると、すでに葉っぱの落ちた木々の合間、確かにそれが確認できた。
何年ぶりだろう。それは0.03秒くらいの異変ではあったが、紛れもなく流れ星だった。そうか、今日はふたご座流星群の極大日だとか職場の休憩所のテレビで見た記憶がある。月の見当たらない今夜は天体観測には申し分ない。
コンビニでいつものようにカップラーメンコーナーを徘徊するのをやめ、あったかいミルクティーと砂糖がたっぷり乗っかった甘そうなパンを買って公園のグラウンドに向かう。
暗闇に1人、同じように直立したまま上を見渡す人影が見えた。東京にもこうして流れ星を寒空の中眺める人がいるというのを見ると捨てたもんじゃないなとか思う。
昔は流星群と言えば、ぼくにとって大イベントだった。小さい頃に父親に連れていってもらったしし座流星群では1時間に50個くらいの流れ星を見た記憶がある。それから中学の仲良し連中と夜の田んぼの畦道に寝転がって見たり、高校時代の相棒と夜中チャリで行った海だったり、大学のサークル仲間と目指した石廊崎、バイト先の40歳のおじさんとほうとうを食べにドライブした帰りの笛吹公園とか。
中でも火球を見たあの流星群は忘れられない。火球は一般的な流れ星よりも明るく、普通の流れ星がほんの一瞬で消えてしまうのに対して、2秒から長くて4秒くらい流れる明らかに一線を画した大モノなのだ。ときには緑色に光ったりする。あのときはほぼ頭上から地平線くらいまでシューっと音をたてて沈んでいった。
確かあのときもふたご座流星群で、もう8年前のことになる。少し伸びた坊主頭の高校2年生。学ランにピンク色のオールスターのハイカットを履いた目立ちたがりなどこにでもいる高校生だった。
その時は今よりも流れ星に夢中で、ペルセウス座流星群(8月)、しし座流星群(11月)、ふたご座流星群(12月)とか毎年やってくる大きな流星群が近づくたびに「今回は見れるかな」とそわそわしていた。
そんな当時、多くの高校生がそうであるようにぼくも一人の女の子に思いを寄せていた。高校2年生から3年生にかけて2年の間好きだった子がいる。
「さっちゃん」
みんなからはそう呼ばれていて、クラスの中で決して目立つ集団にはいなかったし、活発な女の子でもなかった。弦楽部に所属するおしとやかな子という印象。正直ぼくも同じクラスになるまでは知らなかった。
当時いちばん仲の良かった運動神経抜群の陸上部の友達が1年生の頃同じクラスでさっちゃんのことを好きだった上、告白して見事撃沈したとか聞いていたこともあり、はじめは冷やかし程度に眺めていたのを覚えている。
授業に部活にと時間が経って、文化祭や修学旅行の秋を迎える頃にはそれなりに「2年6組」も出来上がっていって、休み時間には誰が誰といるとかグループもなんとなく決まっていた。ちょうどその頃、さっちゃんのグループともなんとなく話すようになったのだが、極度に男子と関わらないさっちゃんはやっぱりまだ遠かったし、特段それを意識したりもしなかった。
文化祭の準備だったり、それなりに明るいヤツが担う役割を引き受けていたぼくは多分話しやすい存在だったと思う。ある日、教室内の机と机の間、今となっては懐かしいあの狭い空間を通り抜けようと歩いていると、突然学ランの裾を後ろからわずかに引っ張られるのを感じた。
振り向くとそこにはさっちゃんがこっちを見ながら座っている。「ん、どうしたの?」と聞く間もなく、「そのベルトおしゃれだね」とさっちゃんが小さく笑った。「でしょ?」とか気の利いた返しをした気がするけど、内心はすでに穏やかではなかった。それからも近くに行けば同じような感じで何度か話しかけられたと思う。「“綺麗”とか“かわいい”とか“愛おしい”とか、それ以外にも女の子に送る賛辞の言葉のすべてをぼくは全部この人に言いたい」と本気で思った。
相変わらずさっちゃんは他の男子とはあんまり喋らないし、他の男子が「〜〜かわいいよな」とか言ってるときに、「絶対さっちゃんには向かないでくれ」と思うようになっていた。
自然な流れで、ではなく、さっちゃんの友達に間接的にメールアドレスを聞いた。めっちゃガッツポーズした記憶がある。と言っても返事が一晩に1回か2回返ってくるかこないかくらいのペースだったから、「やっぱり脈なしかな」なんて悶々としていた。
豊橋は県内では名古屋、豊田に次いで人口の多いそれなりに大きな街だ。東京から時々帰省してみても駅前の風貌はなかなかイケてると思う。しかし、郊外には延々と畑や田んぼが広がり、冬には太平洋から吹き付ける風が自転車通学には痛いほど冷たい街でもあった。
明確に分かれた市街地と郊外の境目くらいに住んでいたぼくの家は豊橋の郊外部を見渡せる高台にある。昼間はなんの変哲もない景色だが、夜になると点在する家々の夜景がそれなりに綺麗に見えた。夜ご飯を家で食べて、散歩しながらその夜景を眺めて、あの丘のもっと向こうの方にいるさっちゃんのことを想う時間が好きだった。
ぼくの家から高校までも自転車で30分かかるし、それなりに遠かったが、さっちゃんは郊外のさらに郊外、静岡県境が目と鼻の先という太平洋沿いの中学出身だった。聞けばだいたいいつも途中まで親に送り迎えしてもらっている、と。自転車だと1時間以上かかるし、「そりゃそうだよね」とか言いつつも、いつか自転車で一緒に下校して送っていきたいなあ、というのが16歳の少年が抱く最大の夢だった。
そんなことを思ったり、HYの「森」とかをやたら聴いていたら、もう12月。ふたご座流星群の日を迎えた。その時も月のない絶好の条件で流れ星が見えるという予想がされていた。
さっちゃんとはメールはしていても、学校に行って一言も話せない日もやはり多かった。かろうじて続いていたメールの流れで「今日流星群見れるっぽいよ」と連絡したら珍しくすぐに連絡が返ってきた。「流れ星とか見たことない」らしい。海に近く、それほど建物も多くないその辺りなら絶対綺麗に見えるだろうに。
それで本人も今日は見てみるということになって、「部屋から窓開けてみる」とか「明るい部屋から見ても絶対見えないよ笑」とかやりとりをして、普段ならとっくに寝ている深夜2時くらいを待っていた。
ぼくは例のごとく張り切って一人近くの田んぼ(お気に入りのビュースポット)に繰り出し、寝っ転がって時間を待った。静まりかえった見慣れた風景と遠くに聞こえる幹線道路の物流トラックの走行音。すでにちらほらと見えるし、今日は当たりだなとか思って、嬉しくてまたメールした。
ケータイを見るとせっかく夜空に順応した目がまたチカチカする。けど、両方気になる。さっちゃんからもよく返信が来た。「あ、今見えた!」とかそーゆう報告がいちいち嬉しい。
そうやって翌日の学校のことも考えずに夜中3時くらい、寒いしそろそろ家に帰ろうかなと思っていたくらいに光が走った。月のない真夜中というのに、周囲がはっきり確認できるくらい明るくなった。なんだあれ…。頭上から出発したそれは地平線に向かって4秒くらいかけて落ちていった。白い光が地平線付近では緑色に変化して煙のような尾を引いて消えた。隕石?あのときは本当にそう思った。
さっちゃんからもメール。「今の見た?」と。たくさん星は流れたけど、確実に同じもののことを言ってると思えたのはその火球一つだけだった。別にそのときも電話もしてないし、学校でもそれほど多くを話せるわけでもない。それでも深夜3時、誰にも支配されていないこの街の冷たい空の下で、同じ神秘的な光景をさっちゃんと見られたという事実を幸せに、そして大切に思った。
あと数時間後にはいつもみたいに朝練に行って、眠い授業を受けて、また部活をするあの当たり前の一日が始まるなんてとても信じられないような非日常の数時間(でも毎日確実に“やってきては過ぎていってる”その誰のものでもない贅沢な時間)だった。
翌日、いつもより眠すぎるいつもと同じ数学の時間。数学の先生はそれなりに厳しいことで知られる20代後半の女の先生。宿題をしてこないと結構うるさいから、不真面目なやつもだいたいこの先生の出す課題は提出していた。例のごとく、生徒を査定するような視線とともに「まさか、やってこなかった人はいないでしょうね?」とジロッと見渡される。
面倒だから友達の答えを写して難を逃れていたが、一人だけ宿題を忘れて生徒が立たされた。なんと、さっちゃんだ。さっちゃんは真面目で、成績も優秀でよく知られていたからその場には変な空気が流れた。
「あなたが宿題やってこないなんて珍しいわね」と先生が驚いている。先生もなんとなくさっちゃんが常習犯でないことくらい察したのか、他のやつが忘れたときとは全然違った「気をつけてね」くらいの対応だった。
座りぎわ、目は…合わなかった。でもぼくは知っている。昨日さっちゃんは流れ星に夢中だったのだ。朝方近くまで空を行き交う星たちに魅了されていたのだ。あの圧倒的スケールの宇宙に対峙して、そんな中で寒いとか、綺麗とか、きっと色々思ったり呟いたりしていたのだ、と。そのことを今ここではぼくだけが知っている。
結局、またいつもの日常が始まって、一日は毎日当たり前に終わって。高校3年で別々のクラスになったさっちゃんに「一緒に帰ろう」とも「付き合ってほしい」とも言えずに高校生活は終わった。ぼくは東京に来たし、さっちゃんは静岡に行った。
期待したことは何一つ起こらなかったけれど、それでもあの夜、同じ流れ星を見たという事実だけが関係性の中に残っている。これからも流れ星を眺めるたびにあのときのことを思い出すのだと思うと、また次の流星群を楽しみにできる気がした。
「風の噂で地元の銀行に勤めていると聞きました。
さっちゃんは今も流れ星を見たりすることはありますか?」
ないか。