弱さの直視が新たな強さの契機に。『フラジャイル』より
シンデレラがなくした片方の靴は、全世界の神話伝説が秘める「欠けた王あるいは弱足の物語」を継承する。
「今日も事態は好転しなかった」と頭を掻いては仕事に停滞感を感じていた頃、「まだまだ踏ん張って飛躍するんだ」という想いとは裏腹に「次に休みができたらどこに行こうか」という現実逃避が頭に占める割合を膨らませていた。
かつて自身も歩いたスペインの巡礼路のことを思い出して調べているときに知ったのが作家の小野美由紀さん。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の体験を書籍化されているということだったが、それ以上にタイトルが気になって『傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった』をKindle版で購入した。
就活当時、慶應義塾大学在学、留学経験、TOEIC950点、インターン等々無敵の履歴をもって大企業の面接に向かった。しかし、会場入り直前でパニック障害発症。以後内定なしで大学を卒業し、暗黒の20代前半をはじめ波乱万丈な人生が赤裸々に語られている。
自身の心境もあってか、これがびっくりするくらい面白かった。むき出しで、正直で、生々しい。同じ時代、同じ国に生きている人だからこそ、歴史上の名著とはまた別の圧倒的共感を覚えた。こちらも改めて紹介したいが、この書籍内で小野さんが強く推薦していたのが松岡正剛さんの『フラジャイル 弱さからの出発』だった。
かつて師事した編集者の師匠ということもあって松岡さんの書籍は何冊か読んでいたが、『フラジャイル』は初めてだった。
「弱さ」「欠陥」「不足」に焦点を当てた一冊だ。いくつか印象的な箇所を引用したい。
弱さからの出発。『フラジャイル』より
私の考えでは、劣等感はかならずしも自分が劣っていると自覚するから生まれるのではない。むろん何かは劣っているかもしれないが(誰だってそんなものはあるが)、当人はそれとは逆に、いつもひょっとしたらうまくいくかもしれないというふうにおもっているものだ。この「ひょっとしたら」という気持の高揚がなかったら、劣等感はたいして育たない。
ところが、この種の人間は自分がかかわる場面を意識しすぎる傾向がある。いろいろな場面のなかで自分が活躍する姿を想定しすぎてしまう。そこで、ついつい気持が事前に高揚し、あれこれの“強い場面”を空想しながらふやすことになる。いろいろの「ひょっとしたら」や「まさか」が渦巻く。だが実際の現実では、その「まさか」があっけなく裏返り、そんなことを考えていた自分の逡巡にいっていく。そこががまんならなくなり、そこが悔しくなる。
「どうせ無理だ」とは思わない方だった。少なくとも昔は「望めば手に入る」と思っていた。「ひょっとして」が実現しなくなってきたのはいつからだろう。盛大に期待を前借りして、それが叶わなかったとき、その可能性の方が大きかったことは頭では理解していながら、「やはり自分は欠陥品なのでは」という疑いが大きくなる。
成功は束の間、すぐに他の成功を求める過程に移行するくせに、敗北はそこで終わらない。頭の中で思い当たる原因を探しては補強していき、敗北=否定の念が事実以上に増大される。周期的な気まぐれな鬱も大きいが、単独の失敗体験という事実以上に「こんなはずじゃなかった自分への落胆」という部分にひどく苦しんでいるのである。わかっている。自分の首を絞めているのは自分なのだと。
欠陥や弱点や不足があるということは、むろんそれが致命傷にもなるのだが、ばあいによってはそのことが反転して、新たな「強さ」の契機にもなりうるということだ。不足はいつまでも弱い不足のままではなく、いつしか強い満足に反転していく可能性を秘めているということである。
「こうあらねば」という世の中の秩序をある程度意識して、自分の中に一通り植え付けた頃に、それに則って生きていくことが難しいということがわかった。
もう自分を「なんて怠惰なんだ」と責めなくてもいいと一度は安堵したが、欠陥の事実は今後永劫不変なのだとしたら一体自分はどうやって人並み以上に生きていけるのだろうかという絶望に変化した。
しかし直視することで付き合い方が少しだけわかってきた気がする。「ADHDの自分でもできる/なれる」という選択ではなく、「ADHDの自分だからできる(だから捨てる、も)」の生き方に光を当てること、少し時間はかかっているが自身の内外で常識の矯正が今行われている。
そもそも物語という構造をつくった人々が、じつは盲目性や去勢性といった決定的な欠如を烙印された人々であったということである。ついで、その物語に登場する主人公たちの変転は、つねに「不浄」と「浄化」という二極をゆれうごくプロセスを経験した者として表現されているということが浮かび上がってきた。
しかも、その二極は、これまでしばしば議論されてきたような「ケガレとキヨメの二重化」としてのみ機能するのではなく、片足の神の物語がまわりまわってシンデレラの片靴の紛失の物語になるように、いわば「不足と満足の対比」として劇的に機能していたことも見逃せないことになったのである。
「9割がた鬱々とした気持ちでいる」と語っていたのが『夢をかなえるゾウ』で有名な作家・水野敬也さんだ。しかし、同時にこうも言っていた。
「そうやって鬱々としてることが全部ネタになるんだし、ものかきって素晴らしい仕事ですよ」
せっかく持ちあわせた欠陥に絆創膏を貼って生きていくより、かっこいいカサブタだと愛で、感謝して生きる日がくるのかもしれないと感じる箇所だった。
欠陥が新たな美しさをたたえるまで
茶の文化というものは、もともと欠けていることを出発点にした。ありあわせこそが茶であった。
『フラジャイル』が面白いのは、感情的な励ましでは全くなく、文化史や歴史の中の事実から「弱さ」について記述しているところだ。読んでいて、「弱さが新たな強さの契機になる」という個人的な体験を思い出した。
以前、金継ぎワークショップに参加したことがある。
▼金継ぎワークショップに関してはこちら
「金継ぎ」とは、割れたり欠けたりした陶磁器を漆で接着し、継ぎ目を金や銀などで飾る修理法のこと。修理後の継ぎ目を「景色」と見立てて楽しむのが特徴です。 室町時代、茶道の普及とともに盛んになったといわれます。*1
ここ数年、決まった拠点を持たないぼくには思い入れのあるお皿(なおかつ破損している)などあるはずもなく、当日講師のナカムラクニオさんから使用するお皿をいただいた。
そのお皿はイメージしていたような豪快にパックリ割れたものではなく、縁がかすかに欠けている程度のものだった。正直、金箔を塗る箇所も少ないし、そんなに大きな変化はないだろうと思っていた。
しかし、実際に工程を終えてみると驚いた。わずかに欠けていた箇所に金色を加えることで、お皿は明らかに自信をたたえて堂々とした表情をしていた。それは間違いなく、「傷があったから」獲得できた美しさなのだ。
欠陥を抱えていることは、そのまま、新たな美しさを獲得できる余地が手中にあることに他ならない。
弱さを直視して、その人生を肯定していく
「ないものではなく、今自分の持っているものを数えよう」という言葉に励まされてきた。しかし、「弱さ」そのものを直視して希望と捉えるような考えはこれまでしてこなかった。将棋では最も凡庸な「歩」のコマが相手陣地に入ると「と」に裏返り、すなわち「金」と同じ役割を果たすことはあまりに有名だ。
弱さを直視するということは、もしかすると他方から「諦め」とみなされる行為なのかもしれない。思うに、弱さや欠陥という性質がどの土壌において、そうみなされているのか、という問題も見落とせない。誰かや何かの追随や再現において、ぼくの不器用の出番はない。弱さや欠陥は何者かになることで繕えるものだと思っていたが、どうやらその果てにあるのは誰かの劣化版コピーみたいだ。
つまり、ぼくの中の弱さが発しているのは「そのまま進め」というコールだったんだと思う。エジプトで出会った友がくれた言葉を思い出した。
「鶏口となるも牛後となる勿れ」
ぼくは堂々と弱さを肯定して歩いていこうと思う。
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