さぐりさぐり、めぐりめぐり

借り物のコトバが増えてきた。

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カメラの前では誰でも役者。しかるべき被写体像に寄せに行ってない?

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ナイター中継を気にしながら家族で夕食を囲む夜7時。そこに突然鳴る電話の呼び出し音。慌てて受話器を取った母親の声は5秒前のそれと明らかに違う。

この違和感を少年時代に多くの人が一度は抱くことと思う。

それは受話器の向こうにいるおそらく知らないであろう人に向けて用意された母の外向けの声であった。電話に限らず、気づけば人は多くの“しかるべき対応”を身につけているものである。

「マスコミの情報操作だ!」

「情報を正確に処理するためにはメディアリテラシーが不可欠」

マスコミ批判やメディアリテラシーの喚起が絶えない昨今、どうやら課題は取材者ばかりにとどまるものではないらしい。一般的に「作為的」と受けとられるような情報に「被取材者」が加担している場合もあるかもしれない。

カメラを向けられると人は役者になる

毎月一回出席している毎日ビデオジャーナリズムラボ。第4回のゲスト講師は、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』で助監督を務めた安岡卓治さん。講座前日に『ゆきゆきて、神軍』を視聴。少し前に読んだ沢木耕太郎さんの『人の砂漠 (新潮文庫)』に登場した奥崎謙三さんを追ったドキュメンタリーということで終始興味深く観られた。

 ▼『ゆきゆきて、神軍』のあらすじ

87年の日本映画界を震撼させた驚愕の作品。
天皇の戦争責任に迫る過激なアナーキスト奥崎謙三を追った衝撃のドキュメンタリー。
神戸市で妻とバッテリー商を営む奥崎謙三は、たったひとりの「神軍平等兵」として、”神軍”の旗たなびく車に乗り、今日も日本列島を疾駆する。
生き残った元兵士たちの口から戦後36年目にしてはじめて、驚くべき事件の真実と戦争の実態が明かされる・・・。
平和ニッポンを鮮やかに過激に撃ち抜いた原一男渾身の大ヒット・ドキュメンタリー。*1

作品は、奥崎さんがかつて従軍していた頃の上官らを訪れていく様子を中心に進んでいく。戦火に散った仲間の死の真実が隠蔽されているという疑念のもとで行動する奥崎さんは、訪問先で時に過激で暴力的な振る舞いを繰り出す。そんなシーンの数々には鬼気迫るものがあった。

しかし、安岡さんの裏話によると、実際にはところどころ奥崎さんによる“パフォーマンス(演技)”もあったという。実はドキュメンタリーの現場では、当事者がしかるべき物語(期待されている物語)に寄せるべく演じることが少なくないそうだ。奥崎さんはとりわけカメラを意識する人だったという。

ニュースを作る構成員

これに関して、レギュラー講師の下村健一さんのお話も興味深かったので共有したい。

下村さんの少年時代、町田市の実家付近で日本最後の天然痘が発症して大きな騒ぎになった。その家の周りを多くの報道陣が囲んでいる。

少年時代の下村さんは同じく様子を覗きにきた友達と一緒になって、マスコミの取材陣の裏でガヤガヤはしゃいでいたという。その場にいた多くの大人たちも非日常的光景への興味がそこにいた理由だったといえよう。

ところが、ふとカメラが後ろの市民たちを映そうとすると一転、下村さん本人を含めた大衆は、“疫病を怖れる近隣住民たち”の表情へ瞬時に切り替えたという。

聞いていれば笑ってしまうような話だが、類似する行動は日常に溢れている。

  • 電話に出る時に変わるトーン
  • カメラが向けられるとつい取ってしまうポーズ
  • ぎこちなくニュースの体を真似る放送委員の小・中学生

「〇〇したら△△する」というような因果(フックとアクション)は、見えない記号として人々に共有されている。わかりやすいニュースを作る構成員が自分たちであるという可能性について考えたことはなかった。

しかるべき像と役者化の個人的体験

意図的な編集についてはまったく他人事ではない。こうしてブログを書いているときにもふと思う瞬間がある。

個人ブログゆえに記事テーマは自分を出発点とすることが多い。現状のぼくを説明する上で属性を引き出そうとすると以下の2つが挙げられる。

これまでにいくつかの記事でこれらのキーワードに関することを書いてきた。それぞれストロングワードであるがゆえに、実際には自身がそこまで悲観していないこと(事実ではあるけども)も、その属性の代弁として表現してしまっていることもあった。

例えばニートであることは事実ではあるが、積み上げすぎた読んでない本(しかし、早く読みたくてたまらない本)を片付ける期間として肯定的に捉えている。しかし、【昨日みたいな今日】24歳の不安と憂鬱を動画にしたの記事では、いわゆる一般的なニートのネガティブな面を自分ゴトのように登場させてしまってはいないか、と振り返った。「そういう見せ方をした方が面白いのではないか」というものに境遇がリンクしたことから、精神面については置き去りにしていたのである。

「あれ、俺ホントにそう思ってる?」と心は問いを発してはいなかっただろうか。

しかるべき像に自分を近づけるため役者化させていた一例である。

取材をする側・される側の信頼関係を築くことが誠な情報のカギ

「取材」や、その象徴である「カメラ」は被写体に役割を強いるもの。人は無意識のもとでその媒体の求めている特性、すなわち、しかるべき姿に自分を近づけようとしてしまう。

実のところ、ドキュメンタリーというものは結構フィクションの要素があるし、監督もそれを自認しているという。

最近までフィクションの小説や物語を書ける人は創造主なのでは、と思っていた。しかし、その多くは事実をヒントにしており、実際にはほとんどが現実のオマージュだと言われている。考えてみれば、人は環境や習慣という空気を吸って吐いて生きているのだから当たり前のことである。

報道やドキュメンタリーという本来事実を“追う”側の存在が、今日では取材対象者(当事者)のしかるべき対応を生み、要求しているという現実がある。これからのメディアと市民の関わりにおいては、まずその必然の条件反射を把握しておく必要がありそうだ。

しかるべき対応の向こう側へのアプローチ、取材の主従関係を壊せるのは、取材者のスタンスと過ごす時間の濃度によって築かれる信頼関係の他に思い当たらない。