さぐりさぐり、めぐりめぐり

借り物のコトバが増えてきた。

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【若者の定義】その「5分」を逃がし続けた先に

2018年の年明け早々、東京メトロ東西線早稲田駅にほど近いシェアハウスに引っ越した。上京して7年目にしてはじめての23区、住みなれた多摩地区からの移動であり、はじめて降りる駅ではあったものの意外なほどの速さで順応している。

前々から人生の大きな節目になるだろうと捉えていた1月6日、25歳の誕生日は呆気なくインフルエンザとの格闘で終わっていった。誕生日であったと同時に、前日1月5日をもって3ヶ月の自動車工場期間工を満了したことによる無職記念日でもあった。


不意になのか、自然の成りゆきからか時間の贅沢を手にして何をしているかと言えば、徒歩3分の早稲田大学であったり、新宿区立中央図書館で日がな本を読んでいる次第だ。

そんな折、手に取った沢木耕太郎の短編集『バーボン・ストリート (新潮文庫)』にはこんな一節。 

二十五歳ですでに青年でなくなる人もいれば、三十五歳を過ぎても中年という呼び方がふさわしくない人もいる。

 
▼引用元

バーボン・ストリート (新潮文庫)

沢木 耕太郎 新潮社 1989-05-29
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by ヨメレバ

 いつまでが「若者」なのか。

安い酒場で人生について語るようなテーマではあるが、これまで信じて疑わなかった「自分は若者」という立場が意外と今、危うくなっている瞬間を感じることがある。
 

画面越しの初日の出

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初日の出や流星群といった非日常感のあるイベントが昔から好きだった。誰に強制されるわけでもなく、自分の中では「マスト」な行事。

自転車を20分漕いで一面の田畑に囲まれたり、風の冷たい冬の透き通った太平洋から昇る日の出を見られた地元・豊橋から、海もなく、それでいて延々と並ぶ住宅に埋まった八王子に引っ越したことで随分とモチベーションは下がったように思う。

それでも時折仲間たちと車を借りて山梨や伊豆まで流星群を見に出かけたり、年越しを過ごしたコンビニ夜勤の後、初日の出を逃すまいと近くの高台まで原付を走らせたりしていた。


2018年は中央線の中で迎えた。3ヶ月住んでいた部屋のあった羽村駅に到着したのが0時40分頃。特に何をする予定もなく、日課になった深夜のファミレスへ。いつものように飲み放題のカフェラテを相棒に朝方まで本を読んでいた。

元旦ということもあり、いつもは静かな店内も初詣を控えた地元の若者たちや親父連中が楽しそうにおしゃべりに興じている。


朝6時に眠気を感じ、430円のドリンクバー代を支払って店を出る。東にまっすぐ伸びた産業道路の果て、雲ひとつない澄み切った空模様からは2018年最初の太陽の姿が確約されていた。


「初日の出か。」


数秒間考えた末、住宅街のアパートを目指して歩き始めた。いつもの道を20分歩き、部屋のドアを開く。6時45分、富士山の上空から眺める初日の出をテレビ越しに見た。

その5分を逃がさない

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間に合った、けど行かなかった。

なにも初日の出に限らずとも、窓から差し込むまばゆい光で目が覚めたある日の朝5時や、日没後の曇りガラス窓から感じる紫がかった空模様。少し前までなら窓を開けて、すぐに布団を出て、そんな日常の中に時々訪れる美しい瞬間を逃してしまうことを諦められなかった。

いつからか、わかっていても布団を出られなくなり、椅子からその腰を上げられないことが増えた。

そんな選択をすることが最近増えた気がする。大切にしているもの、美しい瞬間の目撃者になるために必要なたった5分を怠っていないだろうか。

 

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条件反射でしていたことに、決断が必要になってきているのを感じる。それどころか、無数の些細な選択・決定に消耗している気さえする。もしかしたら、ぼくはもう「若者」を名乗る権利を失ったのだろうか。


「迷い、考え、やらない」


守れない自分との約束が増えるごとに心の皺が増えていく。