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【『幸福論』アラン】不幸になるのは簡単、幸せになることは難しい

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不幸になるのは何もむずかしくない。ほんとうにむずかしいのは、幸福になることだ。

 

またひとつ大切な本に出会った。最近は「幸福」とか「苦悩」とか、なんだか抽象的で大きなテーマの本ばかり読んでいる。図書館も時間も比較的自由に使える学生のうちからこんな本を読んでおけばよかったと思わないでもないが、無数の本の海からこの本を手に取ったのが今なのであれば、それが自分の読むべきタイミングなのだろうと納得もしている。

アランと『幸福論』

アランはペンネームであり、本名はエミール=オーギュスト・シャルティエという。フランス各地の高校で教師をつとめる傍ら、哲学・評論分野でも活躍した人物である。哲学の面ではカント、ヘーゲルアリストテレスプラトンスピノザに影響を受けており、『幸福論』の随所にも彼らの教えが登場する。また、46歳の頃に第一次世界大戦の兵隊に志願し、その経験も本書に盛り込まれている。


『幸福論』は全93つのプロポ(断章)によって構成される。哲学でありながらエッセイとも言えるような文調で本嫌いでも読みやすい内容ではないかと思う。

『幸福論』より

タイトルの通り「幸福」というテーマが中枢にあることはもちろんだが、取り扱う事例はさながら行動心理学の説明になっているようにも思う。特にアラン自身の志願兵時代の体験に基づいたエピソードなどは興味深く、そのまま身近な例にも変換できる。以下にいくつかの教えを引用したい。

戦争をはじめるのは

人間は快楽よりも行動を愛する。その行動とは、他のどんな行動にもまして規律のある規則正しい行動、そして何にもまして正義のための行動のことである。そこから、結果として、とほうもない楽しみがたぶん生まれるであろう。

 

自分でやること、人にやってもらうのではない。そこにはよろこびのいちばん深い意味がある。ところが、砂糖菓子は何もしないでも溶けて美味しいものだから、多くの人はそれと同じように、しあわせも味わえるだろうと思うから、だまされてしまうのである。

この2つの文、とりわけ砂糖菓子の部分を読むと、「楽しい/幸せと思えるはずのことにどうも充実感を感じない」という現象を解説された気持ちになる。本当のところ、人は物理的な贅沢ではなく、精神的な報酬を求めて生きているのかもしれない。

 

社会の秩序が乱されるのは、いつも退屈さからだ。また退屈さからくるばかげた行為からである。

戦争はすることのない少数の人の退屈によって起こされるという。仕事であれ、なんであれ参加することのある人々には人生を充実させるべく戦いとリスクが伴っている。しかし、王や支配者にはそのままの人生では冒険できない。危険を求め、それを意味づけて、存在を証明したいのだ。

幸福は結果ではない

「幸せになる」というフレーズは、教室でも会社でも居酒屋でも語られるものである。だから多くの人にとって当然幸せは求めるものだし、頑張って最終的に得られる成果のことだと思っている。しかし、アラン曰く、幸福というものは結果ではないようだ。以下に「幸福から始まる」例をいくつか引用したい。

よろこびを目ざめさせるためには何かを開始することが必要なのである。幼な子がはじめて笑うとき、その笑いは何ひとつ表現していないのだ。しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いたい。

「笑うからしあわせなのだ」という部分。正直なところ、この部分はぼくには共感できない。それは、ポジティブな表現から幸福を呼び起せた体験が過去にないからだ。この教え自体はこれまでにもどこかで聞いたことがあるような気がする。日々の中の苦しいとき、深刻な場面でポジティブなアクションを起こすときに片隅にあるネガティブな事実を払拭しきれていないからなのかもしれないが。

もう一つ、こちらは事例自体異なるものの、極めて共感できる一文を紹介したい。これはアランが戦争で前線にいたときのこと。
 

病気にかかってしまったのは過失ではない。これに対しては軍隊の規則も名誉も、何も文句が言えないのだ。心の中で期待に胸をおどらせて、病気の兆候を、死病であっても待ちかまえなかった兵士などいない。

あの残虐きわまる生活のなかで、しまいには病気で死ぬのは実に心地よいことだと思うようになるのである。そういう思いは、どんな病気に対しても非常に強い抵抗力となる。よろこびが身体を、その隠れたところで按配する加減といったすばらしいもので、どんな名医だってそれには及ばないのだ。

どこかに心当たりはないだろうか。熱を出して、ものすごく憂鬱な学校や授業を真っ当に欠席できると喜んでいたら、すぐに治ってしまったり。そんなとき心が自覚しているポジティブな感情が身体にまで好影響を与えているというのだ。想像以上に心の本音は状態を形成するもののようだ。

まとめ:不幸は気分、幸福は意志

思えば最近、極端に悲観主義に陥っている気がする。嘆いている現実・現状にいつも容易に原因・理由を探すことができてしまうから。だから不幸になることは簡単というより、もう考えれば考えるほど「自分は不幸なのだ」という事実に支配されていく。ああ、特別なことじゃないんだなと『幸福論』を読んで気づいた。

だからこそ「幸福でいること」、もしくは状態でなく、「笑っていること」「感謝を伝えること」という動作は尊い。なぜなら、それらは自己の意志に基づくものだからだ。

友からのリプライ。

「自分は不幸だ」という悲観主義には事実が加担しており、証拠を探せば探すほどそれは強固になる。だから不幸になること、不幸でいることというのは何も難しくないのだ。それらはすべて自分との対話、すなわち一人で完結していることであるから。

対して、「自分は幸せだ」という楽観主義は幸福を欲する意志であり、悲観に支配されることを阻む覚悟である。それは「いつか幸せになりたい」ではなく、幸福な状態は続いてゆく幸せのスタート地点であるということ。幸福が平和そのものだということ。だから、正確には「自分は今、幸せだ」以外には成立しない。

繰り返しにはなるが、最後に念押しにアランの言葉を用いたい。まず幸福になりたまえ。

賢者が言ったように、まず幸福になりたまえ。なぜなら、幸福は平和がもたらす結果ではない。幸福とは平和そのものであるから。

 

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